「棋は対話なり」─ 緊張感を集中力に転換
福井 歴史を刻む将棋の総本山での解説や記録・読み上げまで付された本格的な対局。大変貴重な経験となりました。
天彦 いやあ、序盤から本当に完璧な指し手をされて、放送時間を余してすぐ終わってしまいそうになり(笑)。まさか、最初からこちらがあんなに時間を消費するとは想像していなかったんですけど(笑)。
福井 対局いただいた天彦先生に失礼がないよう、自分なりに研究を重ねました。
天彦 最善の粘りをしないと一気に潰されてしまうので、かなり力を入れて序盤は持ち堪え、中盤は捻り合い、終盤もお互い30秒将棋の熱気溢れる展開になりましたが、最後の競り合いではプロの技を披露できたかなと(笑)。驚いたのは183手もの長手数。それも勝敗が最終盤まで分からない状態。私自身、大いに充実した時間でした。

CS番組の収録のため東京・将棋会館で行われた佐藤天彦九段と福井直昭学長の対局
福井 「棋は対話なり」──2時間近く先生と将棋盤を挟んで向き合って、その言葉が頭に浮かびました。本対談とは全く別の意味の、実に贅沢な「対話」でした。
天彦 福井先生にとっては経験されたことのない、いわばアウェイのシチュエーション。多少は緊張されていたかとお見受けしましたが、ただそれを、力を発揮する上でマイナスになる動揺ではなく、むしろプラスになる没我の集中力に繋げているようで、印象に残りました。
福井 前回は、仕事外の時間の重要性についてお話ししましたが、いや実際仕事以外でこんなに緊張する場面なんて滅多にない(笑)。今後の人生においても活きるような、得難い体験となりました。
天彦 そこまでの事を感じて下さって光栄です。私もまだまだ未熟とはいえ、10代、20代の時よりは棋士として勝負以外の役割・責任が増え、それ故に不安や緊張を感じることも出てきた気がするのですが、それだけに先生の緊張感を集中力に転換する力には刺激を受けました。もちろん、この辺りは分野は違えどプロとしての経験が大きい面でもあると思いますが…。
福井 駒を並べる段階で手が震えたので、頭の中まで震えて実際の指し手自体まで委縮しないよう奮励しました(笑)。
天彦 序盤は本当に完璧でした。どのプロにも異論はないと思います。しかし、いかに模様を良くできても、王様を詰ますという所まで辿り着かないといけないのは、将棋の厳しさの一つですね。
福井 正直「いけるかも」と何回か思ったので、その度に浮かれる気持ちを抑えたのですが(笑)。棋士の方々は、幼少の頃から逆転の怖さを嫌というほど味わっていますよね。少しの有利を拡大し勝ちに繋げる。あるいは、不利な局面から何とか相手に間違えさせて逆転に持ち込む。一流棋士であっても、一つの勝利を得ることは容易ではない。「勝ち切ることが難しい」という言葉は、一層素直に私の胸に響くようになりました。天彦先生の洗礼を受けたお蔭です(笑)。人生の教訓にしたいと思います(笑)。
天彦 でも、あの対局場の充実感というか空気感は、勝ち負けとは別の次元で素晴らしいものだったと思います。あれだけ長く続いた熱気は、きっと視聴者にも伝わったのではないでしょうか。
福井 負け惜しみではなく、序盤で押し切るより、終盤のあのスリリングな時間を先生と共有できた事は、本当に幸せでした。

お二人と、テレビドラマ化もされたベストセラー「うつ病九段」の著者としても知られる解説の先崎 学九段と、女王2期を誇る聞き手の上田初美女流四段
仕事と趣味を刺激し合う
福井 天彦先生はメンズファッション誌の年間表彰で受賞されたほど、ファッションに一家言をお持ちですが、お好きなベルギーのブランド「アン・ドゥムルメステール(以下、アン)」についてお願いします。
天彦 中近世ヨーロッパを思わせる装飾が適度に施されたデザインが特徴です。絢爛豪華なバロック、優美なロココ、どちらも私は美しいと感じていますが、当時のままのファッションは、現在の日本では勿論出来ない。だからこそ、それらの要素を上手く取り入れつつ色はモノトーンで纏めることで絶妙なバランスを保っている、アンに惹かれています。
福井 若い頃は、貯金を切り崩し電気が止められそうになるまで、アンの服に投資されたんですよね(笑)。
天彦 でも、20代前半という多感な時期に、多少無理をしてでも感動させられるものを取り込んでおいて良かったです。
福井 先生は、もはやアンの広告塔みたいなものですからね(笑)。現に、私も影響を受けて何アイテムか購入してしまいました(笑)。幻想的で官能的な世界観が気に入っています。ご自宅の豪華絢爛な家具については紙幅の都合で次の機会にと思いますが、先生は趣味の幅が実に広く、絵画教室に通われていたり、音楽理論(和声)も習われています。

両人ともアン・ドゥムルメステールのアイテムを着用し、オーケストラの演奏会を鑑賞(於:東京芸術劇場 コンサートホール)
天彦 基礎を知るだけでも、絵を観るときの感じ方や音楽の聴き方が変わりました。音楽も将棋も、それぞれ限られた数の音や駒たちが、セオリー・定跡に沿いながらもそこから逸脱していく様が似ていて、興味深いです。
福井 前回、ピアノを22歳から5年間習われていたと伺いましたが、なんとこのたび、私の下で再開いただくことと相成りました(笑)。
天彦 福井先生が、6年間ほぼ弾いていなかった私にどのように教えて下さるのか想像できなかったのですが、音楽の構造から来る必然に近い弾き方をしなければいけないような部分、反対に解釈の余地が幅広い部分など、本質的なところから教えて下さり楽しかったです。あとは、間近でお手本のフレーズを弾いて下さるので、純粋に迫力をも感じました。聴く専門の私のようなファンにとっては、そのような距離で演奏を聴くことは普段ありませんので。思わず聴き入ってしまい、ご指導が耳に入っていない瞬間すらありました(笑)
福井 お互いのプロの部分と趣味がクロスオーバーというか、刺激し合えれば良いですよね。
天彦 技術を高めればもっと楽しく色々なことが教われると思うので、少しずつでも練習をしたいところなのですが、この辺りはプロ棋士生活とどう両立できるか、これから模索していきたいと思います。

天彦九段ご自宅の豪華絢爛なイタリア製ソファー(撮影:天彦九段)。完成品が届くまで1年近くかかったという一品は、バロック的なデザインとロココ的な色味の融合
“人間が楽しむ”ための将棋と音楽─ AI時代に打ち鳴らす警鐘
福井 AIではない生身の人間同士が長時間に渡り困難に挑む姿に感動する」という前回の話の続きですが、実は棋士とAIの戦いは、2017年、棋界最高峰の名人であられた天彦先生が敗れた事で、いったん“終焉”を迎えました。
天彦 そういう時代がいずれ来ると考えていましたので、結果には淡々としていました。それに「人間とAIの強さは別物」という感覚が昔からありましたから。つまり、人間同士の勝負は、ただ盤上で能力を発揮し合うだけではない。必ずそこに至るまでのプロセスがある。強い相手と戦うことによるプレッシャーから委縮してしまって、勉強の意欲が減退することだってある。「それじゃあダメだ」と自分の心と戦って、最終的に対局当日を迎えるわけです。
福井 音楽家と棋士に共通して必要な日々の練習・研究という孤独な作業、逃げ出さない姿勢ですね。
天彦 人間の強さというのは、他人との戦いは勿論ですが、自分自身との戦いによっても生まれ育っていくものだと思います。
福井 インドの格言にも「ひとは唯一の友としての自分と、唯一の敵としての自分を持つ」とありますからね。ところで、現在、将棋AIは棋士の研究面のみならず、ファンにとっても、もはや必須のツールです。対局中継では、その指し手ごとに両棋士が勝つ確率と、次に指すべき「候補手ベスト5」が表示されます。しかしAIによる候補手は、その後、対局者同士が最善手を完璧に指し続けたと仮定した場合ですよね。そこには人間の経験則や恐怖心に基づくいわゆる実戦心理の他、疲労、残りの持ち時間等は加味されない。それは例えると、車のナビが提示する難しい最短経路、つまり現実にはこんな道走れないよ、という手…こんな理解で合っていますか?

天彦 合っています、合っています。狭い道で車を擦りながら進むような(笑)。
福井 それは走りたくないですね、と言いつつ、実は私はペーパードライバーなんですが(笑)。
天彦 私も、免許すら持ってません(笑)。
福井 その分、洋服にお金を使ってるんですよね(笑)。それはさておき、棋士がAI候補手と違う手を指すと、コメント欄で厳しい声が飛ぶこともあります。天彦先生は、こうしたAIの判断が絶対視される現実について「“評価値ディストピア(暗黒郷)”に監視されている」と表現され、話題となりました。
天彦 一般社会にも起こりうる問題ではないかという思いもあって、冗談半分で表現してみました。将棋を科学的にAIの数値で解釈することは、人間が楽しむ上で有効な一手段でしょう。確かに、棋士がAI候補手を指せなかった時は、純理論上、あるいは科学的な観点から、力不足と批判することも可能です。しかし、先ほど先生が挙げたような要素を思量すると、断崖絶壁を命綱なしで登るような、現実的に人間には指せない手も多いわけで、それはもう「非人間的、非現実的な批判である」という、相反する解釈も成立します。
福井 まして持ち時間がなくなった1分将棋でそれらを指し続けるなんて、綱渡りを走ってするようなものです(笑)。
天彦 観る側も、最善手を指すことがどれくらい難しいか分からないだけに、ソフトの点数を鵜呑みにせざるを得ず、「対局者が間違えた」という割と単線的な解釈になりやすい。
福井 科学による数値的な検証が、信奉され過ぎているということでしょうか
天彦 そうなんです。解釈のグラデーションというか、将棋の技術を超越した精神面も含め、同じ環境条件下で自分もできるか、というような想像力が欠如してしまいがちです。音楽と同様、そもそも将棋は、「人間が楽しむ」ためとか「人間が幸せになる」ために存在しているはずです。観ている側も人間、やっている側も人間なわけですから、チャンネルがAIの視点のみでは、実に勿体ない。

福井 将棋も演奏も、ミスだけを強調されては辛い。こんな時代こそ、AI候補手と棋士の感覚の乖離を埋めるための解説者の力量が問われるのでしょうか。
天彦 はい。そうした価値観を持っている人間としては、棋士は色々な心理的グラデーションの中でその選択をし、その結果ミスする事もある、ということを伝えていかなければと思います。
福井 人類とAIの戦いを“終焉”させた当事者としての責任も意識して、ですかね(笑)。一ファンからすると、棋士とAIが「共存」することで、AIが拡げた盤上の可能性、そして難解な局面における「謎解き」の面白さを伝えていただければと思います。
将棋と音楽における真理の探究
福井 現代のトップ棋士というのは、たとえタイトルを全制覇したとしても、より強く進化し続けるAIが存在するがゆえに、研究競争が激化し、ゴールのないマラソンをさせられているようで、本当に大変そうだなと思います。しかし、ここに私はクラシック音楽と将棋の共通性があると考えています。
天彦 と申しますと?
福井 最近は先生ともよくご一緒させていただいていますが、クラシック演奏会のプログラムを見れば明らかなように、失礼を承知で言うと、現代作曲家は、歴史に名を残す大作曲家たちを超えることはできていない。このIT全盛の時代において、こういった過去を凌駕できないような分野は稀有だと思います。言い方を変えれば、時の流れに淘汰されずに残ってきた素晴らしい音楽は永遠に語り継がれるものであるが、その奇跡の恩恵にあずかれる作品は少ない。そしてそれらを学ぶのは決して簡単なことではない。したがって私は、学生諸君に「偉大な作品の真理」に少しでも近づき、そこに少しでも触れた時の幸福感・喜びを感じるために、努力を重ねてほしいと話しています。同様に、いかにAIが強くても、将棋を完全に解明したわけではない…必勝法があるわけではないですよね。それだけ人間が創った将棋は底が見えない実に奥が深いゲームゆえ、これも失礼な表現になるかもしれませんが、もし棋士の方たちが頭を垂れるとすれば、それはAIにではなく、将棋というゲームの存在に対してなのかなと。
天彦 それゆえに棋士は対局を通し、将棋の真理・深淵を探究しています。
福井 演奏家たちが、畏敬の念を抱いて大作曲家の作品に立ち向かうようにですね。
天彦 しかし「唯一の」真理ではなく、それぞれがそれぞれの方法で主観的にそれを追い求め、異なる将棋観をぶつけ合う。それが将棋の魅力なのかなと。
福井 創造性や個性を持った人間によって創られ、プレイされる将棋や音楽の魅力は普遍ということですね。

天彦九段から広がった有名棋士たちとの交流の輪。渡辺明九段、佐々木大地七段、三枚堂達也七段、遠山雄亮六段、瀬川晶司六段、戸辺誠七段、杉本和陽六段、高見泰地七段らが福井学長のコンサートに駆けつける。
さまざまな価値観の吸収─〈和〉のこころ
福井 将棋の進化は情報革命と密接に結びついていますが、インターネット等を駆使して世界中からあらゆる情報を入手できる時代だからこそ、常日頃、何が正しいかを見極める取捨選択の力が大事ですよね。
天彦 情報の流入量が多い反面、検索して得た情報がそのまま知識になっているような錯覚に陥りやすいと感じます。将棋の場合は、勉強する量が多いためAIの点数をつけた手に対して、つい思考を飛ばして「ああ、こうなんだ」と、浅薄な理解のまま納得してしまいがちです。情報の洪水の中で思考過程を空虚にせず、常に深層を探るような意識づけをしておくことが肝要だと思います。
福井 人間関係においても、似たような注意をされていますか?
天彦 「自分とは全然違うけど、この人にとっては、これが正解なのかもしれない。とりあえず決めつけずに、判断を留保しておこうか」という姿勢ですかね。確固たる価値観や感覚を持つのは決して悪いことではありません。それは個性でもあります。ただし、それに捉われすぎてもいけない。さまざまな価値観・可能性を吸収するという作業を日々意識的に積み重ねていけば、将棋の盤面も柔らかい頭と新鮮な気持ちで見られるようになるはずです。
福井 多様性が尊重される現代社会こそ、自分の人生を貫く考え方、すなわちアイデンティティーを確立していくことと同時に、他人の個性や価値観も尊重し、受け入れる努力や包容力、またそこから学ぶ謙虚な心も必要だと思います。この寛容な姿勢こそ、「個々人の自立」と表裏一体となって捉えられるべき本学の建学の精神「〈和〉のこころ」であると、私は考えています。
モノクロームな奨励会時代
福井 天彦先生は、なぜ孤独で苦しい戦いを続けられるのでしょうか?
天彦 おそらく幼い頃から盤上で競っていること自体が、人生観や物事の捉え方に大きな影響を与えているからでしょうか。
福井 プロ棋士になるためには、奨励会という養成機関に入る必要があります。全国の天才たちが難関試験をくぐり抜け、小学校高学年くらいで入会し、プロである四段を目指していくわけですが、21歳までに初段、26歳までに四段になれなかった場合は退会となるため、約8割が脱落する実に厳しい世界です。

羽生善治竜王(当時)を破り、名人3連覇に王手をかけた第76 期名人戦七番勝負 第5局(2018年 5月30日 於:名古屋市 「万松寺」)。着用したボルドーの羽織は、和装にもこだわりを持つ天彦九段のお気に入りの一枚。 写真提供:日本将棋連盟
天彦 会に身を置く時期は、青春であると同時に、まさに進学や就職に関わってくる年代です。普通の若者は誕生日が来るとハッピーな気持ちになるのでしょうが、奨励会員は違います。「ああ、また年齢制限に一歩近づいた」と、苦しい気持ちになるのです。奨励会に入るという事は、まさに人生を賭けるほどの覚悟を要するのです。正直私にとって奨励会時代は、色に例えるとモノトーンです。
福井 正にアン・ドゥムルメステールのメインカラーじゃないですか(笑)。
天彦 ははは(笑)。ただそんな背景もあって、私は今でも時折、奨励会時代の事を思い出し、棋士になることができた重みを改めて感じることがあります。
福井 そういった痛切な勝負を小学生から続けているのですから、強靭な精神力が養われ、特別な人生観・価値観が確立されると想像します。
天彦 「悔しい」というのは、比較的余裕がある感情だと思うのです。例えば今の私はプロになっているので、悔しさも将棋の醍醐味の一部、将棋を戦う上で自然に起きてくる感情です。でも奨励会時代の私は、自分が負けると悔しいどころではなくて、人生が本当に閉ざされるかもしれないという切羽詰まった状況でした。自分は勿論、親もリスクを負っている。勝っても楽しさや喜びを感じた事はほとんど無かったどころか、悔しさを感じている余裕すらなかったのです。
福井 奨励会を辞めようと思ったことが一度だけあるとか。
天彦 中学1、2年の頃です。周りを見渡してみると当たり前ですが、学校の友人は勝負の世界には生きていません。一方、私は朝5時に起きて2時間以上棋譜並べをし、授業中も将棋の本を読み、放課後も真っ直ぐ帰宅して詰将棋を解く。学校を休んでは対局をし、週末も将棋の勉強。基本的に友だちと遊ぶことはありません。それに奨励会で負かされて、日常的に辛い思いもしている。周りとのあまりの差から、ふと普通の日常もいいかもしれないと思い、ある朝「奨励会を辞めようかな」と親に話しました。すると不思議なもので、学校に行くと「やっぱり辞めたくない」という気持ちが沸々と湧いてくる。辞めた時のことを具体的に想像すると、ぽっかりと人生に穴が空いてしまうような喪失感がありました。やっぱり私は勝負の世界で生きてみたかった。結局、「やっぱり続ける」と撤回しました。
福井 当時の感情を突き詰めて考えると、やっぱり純粋に将棋が好きだった、という一言に尽きるのでしょうね。
天彦 私は痛い負けを喫した時も、将棋を嫌いになった事はありません。それは将棋を仕事にしている今も同じです。なぜかというと、負けて悪いのは将棋ではなくて、自分自身だからです。よく好きな事を仕事にすると、それが嫌になってしまうことがあると聞きます。私も当然楽しい事だけではありませんが、すべてが自分の責任で行っていること。それを将棋のせいにする訳にはいきませんし、したくもありません。
プロとして生きるということ── 「人間形成」の必要性
福井 本学は、教育方針として「音楽芸術の研鑽」と共に「人間形成」を掲げています。重なる部分として、天彦先生は著書の中で、「倒した相手から『どうしてあんな奴に負けたんだ』と思われないよう普段から言動に気をつけ、逆に『ああ、あいつに負けたのなら仕方ない』そう思ってもらえるような人間になることを目指す」と説かれています。
天彦 プロになれる人間は極々わずかです。そもそも環境に恵まれなかったり、将棋に出会うのが遅かったり等の理由で、プロを目指すための努力すらできなかった人もいる筈です。つまり、プロであるということは、そうした多くの方々からも見られているということです。自分という人間にも限界があるし、今までもこれからも色々なところで醜態を晒すことがあると思いますが、自分は努力できるという前提の部分で恵まれているんだという事を、常に忘れないようにしています。
福井 将棋の年齢制限のような厳しいものはないにせよ、一つのことを幼いころから突き詰めているという点で、音大生は共通しています。そうした中、各々悩みを抱えているんですが、最後に先生からメッセージをいただけますか。
天彦 私も奨励会時代、本当にプロになれるかなれないかの瀬戸際のところで戦っていました。そんな明るい色彩で彩られない時代も、今振り返ると、そこで得た技術、培った人間関係はものすごく大きい。たとえ練習練習の辛い毎日だとしても、それは後々には非常に豊かな時間であったと思える、そう信じて過ごして欲しいなと。「山あり谷ありの起伏があったほうが面白い」くらいに考えて、自分の人生を映画や小説のように一つの物語として捉えれば、辛い事があっても乗り越えて結果が出せると思います。
福井 人生を俯瞰する視点を持つということですね。対談の前編・後編を通し、お互いの共通した趣味の話題を語らいながら、棋士・佐藤天彦にとどまらず、人間・佐藤天彦を知り、「将棋と音楽の普遍的物語」を紡ぐことが出来ました。心より感謝申し上げます。
(2022年2月発行 MUSASHINO for TOMORROW Vol.139 より)