福井直昭学長 対談

佐藤天彦×福井直昭特別対談(後編)2

第74・75・76期名人 佐藤天彦(棋士)×武蔵野音楽大学学長福井直昭特別対談

“人間が楽しむ”ための将棋と音楽─ AI時代に打ち鳴らす警鐘

福井 AIではない生身の人間同士が長時間に渡り困難に挑む姿に感動する」という前回の話の続きですが、実は棋士とAIの戦いは、2017年、棋界最高峰の名人であられた天彦先生が敗れた事で、いったん“終焉”を迎えました。

天彦 そういう時代がいずれ来ると考えていましたので、結果には淡々としていました。それに「人間とAIの強さは別物」という感覚が昔からありましたから。つまり、人間同士の勝負は、ただ盤上で能力を発揮し合うだけではない。必ずそこに至るまでのプロセスがある。強い相手と戦うことによるプレッシャーから委縮してしまって、勉強の意欲が減退することだってある。「それじゃあダメだ」と自分の心と戦って、最終的に対局当日を迎えるわけです。

福井 音楽家と棋士に共通して必要な日々の練習・研究という孤独な作業、逃げ出さない姿勢ですね。

天彦 人間の強さというのは、他人との戦いは勿論ですが、自分自身との戦いによっても生まれ育っていくものだと思います。

福井 インドの格言にも「ひとは唯一の友としての自分と、唯一の敵としての自分を持つ」とありますからね。ところで、現在、将棋AIは棋士の研究面のみならず、ファンにとっても、もはや必須のツールです。対局中継では、その指し手ごとに両棋士が勝つ確率と、次に指すべき「候補手ベスト5」が表示されます。しかしAIによる候補手は、その後、対局者同士が最善手を完璧に指し続けたと仮定した場合ですよね。そこには人間の経験則や恐怖心に基づくいわゆる実戦心理の他、疲労、残りの持ち時間等は加味されない。それは例えると、車のナビが提示する難しい最短経路、つまり現実にはこんな道走れないよ、という手…こんな理解で合っていますか?

天彦 合っています、合っています。狭い道で車を擦りながら進むような(笑)。

福井 それは走りたくないですね、と言いつつ、実は私はペーパードライバーなんですが(笑)。

天彦 私も、免許すら持ってません(笑)。

福井 その分、洋服にお金を使ってるんですよね(笑)。それはさておき、棋士がAI候補手と違う手を指すと、コメント欄で厳しい声が飛ぶこともあります。天彦先生は、こうしたAIの判断が絶対視される現実について「“評価値ディストピア(暗黒郷)”に監視されている」と表現され、話題となりました。

天彦 一般社会にも起こりうる問題ではないかという思いもあって、冗談半分で表現してみました。将棋を科学的にAIの数値で解釈することは、人間が楽しむ上で有効な一手段でしょう。確かに、棋士がAI候補手を指せなかった時は、純理論上、あるいは科学的な観点から、力不足と批判することも可能です。しかし、先ほど先生が挙げたような要素を思量すると、断崖絶壁を命綱なしで登るような、現実的に人間には指せない手も多いわけで、それはもう「非人間的、非現実的な批判である」という、相反する解釈も成立します。

福井 まして持ち時間がなくなった1分将棋でそれらを指し続けるなんて、綱渡りを走ってするようなものです(笑)。

天彦 観る側も、最善手を指すことがどれくらい難しいか分からないだけに、ソフトの点数を鵜呑みにせざるを得ず、「対局者が間違えた」という割と単線的な解釈になりやすい。

福井 科学による数値的な検証が、信奉され過ぎているということでしょうか

天彦 そうなんです。解釈のグラデーションというか、将棋の技術を超越した精神面も含め、同じ環境条件下で自分もできるか、というような想像力が欠如してしまいがちです。音楽と同様、そもそも将棋は、「人間が楽しむ」ためとか「人間が幸せになる」ために存在しているはずです。観ている側も人間、やっている側も人間なわけですから、チャンネルがAIの視点のみでは、実に勿体ない。

福井 将棋も演奏も、ミスだけを強調されては辛い。こんな時代こそ、AI候補手と棋士の感覚の乖離を埋めるための解説者の力量が問われるのでしょうか。

天彦 はい。そうした価値観を持っている人間としては、棋士は色々な心理的グラデーションの中でその選択をし、その結果ミスする事もある、ということを伝えていかなければと思います。

福井 人類とAIの戦いを“終焉”させた当事者としての責任も意識して、ですかね(笑)。一ファンからすると、棋士とAIが「共存」することで、AIが拡げた盤上の可能性、そして難解な局面における「謎解き」の面白さを伝えていただければと思います。

将棋と音楽における真理の探究

福井 現代のトップ棋士というのは、たとえタイトルを全制覇したとしても、より強く進化し続けるAIが存在するがゆえに、研究競争が激化し、ゴールのないマラソンをさせられているようで、本当に大変そうだなと思います。しかし、ここに私はクラシック音楽と将棋の共通性があると考えています。

天彦 と申しますと?

福井 最近は先生ともよくご一緒させていただいていますが、クラシック演奏会のプログラムを見れば明らかなように、失礼を承知で言うと、現代作曲家は、歴史に名を残す大作曲家たちを超えることはできていない。このIT全盛の時代において、こういった過去を凌駕できないような分野は稀有だと思います。言い方を変えれば、時の流れに淘汰されずに残ってきた素晴らしい音楽は永遠に語り継がれるものであるが、その奇跡の恩恵にあずかれる作品は少ない。そしてそれらを学ぶのは決して簡単なことではない。したがって私は、学生諸君に「偉大な作品の真理」に少しでも近づき、そこに少しでも触れた時の幸福感・喜びを感じるために、努力を重ねてほしいと話しています。同様に、いかにAIが強くても、将棋を完全に解明したわけではない…必勝法があるわけではないですよね。それだけ人間が創った将棋は底が見えない実に奥が深いゲームゆえ、これも失礼な表現になるかもしれませんが、もし棋士の方たちが頭を垂れるとすれば、それはAIにではなく、将棋というゲームの存在に対してなのかなと。

天彦 それゆえに棋士は対局を通し、将棋の真理・深淵を探究しています。

福井 演奏家たちが、畏敬の念を抱いて大作曲家の作品に立ち向かうようにですね。

天彦 しかし「唯一の」真理ではなく、それぞれがそれぞれの方法で主観的にそれを追い求め、異なる将棋観をぶつけ合う。それが将棋の魅力なのかなと。

福井 創造性や個性を持った人間によって創られ、プレイされる将棋や音楽の魅力は普遍ということですね。

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渡辺明名人・棋王・王将(左)と将棋連盟フットサル部の活動で
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