佐藤天彦×福井学長 特別対談(前編)1
第74・75・76期名人 佐藤天彦(棋士)×武蔵野音楽大学学長福井直昭特別対談
“貴族”というニックネームを持つトップ棋士がいます。28歳のとき、羽生善治氏を破って将棋界最高峰のタイトルである名人位を獲得した佐藤天彦九段がその人。クラシック音楽をこよなく愛し、バロックやロココ調の家具に囲まれて暮らし、黒を基調に中近世ヨーロッパを彷彿とさせる装飾の施されたベルギーのファッションブランド、アン・ドゥムルメステールの服を着る── そんなスタイリッシュな生き方を貫く姿勢が愛称の由来とされています。
いっぽう本学の福井直昭学長は、野球や格闘技を始めとしたスポーツ全般への深い造詣に加え、将棋は現在、日本将棋連盟公認アマチュア五段の腕前。6月には天彦九段から指導対局を受け、本対談のわずか10日後には、将棋の聖地「将棋会館」において、天彦九段とCS番組の収録のため本格的な対局を行いました。
将棋と音楽という共通のジャンルに深く関わり、ご自身の専門分野以外にも鋭くアンテナを張りながら、ファッションやライフスタイルに強いこだわりを持つお二人が、ズバリ「将棋と音楽」をテーマに熱く語り合いました。なお、対談の舞台はいよいよ来年4月に一般オープン(予定)する本学楽器ミュージアムです。(2021年9月5日実施)
将棋と音楽
一つのことを突き詰めた上で
福井 6月の長野での指導対局は、有難うございました。
天彦 あの時、福井先生が、角を取られたあたりの局面で、さらに銀を捨てて飛車を成り込んで勝負するところに、難局に遭った時にこそ、あえて踏み込むような鋭さを感じました。普通は押し込まれ始めると、それに応じて引く選択をしてしまうことが多いので、ああいった場面で切り返してきた先生の将棋は、印象に残っています。
福井 覚えていていただいて、恐縮です。来週の将棋会館での対局(CS番組「お好み将棋道場」収録)も、よろしくお願いします。特別なシチュエーションに、今からドキドキしています。
天彦 福井先生らしく、伸び伸びと思い切りよく指されてくださいね。
福井 リベンジなどと気負わず(笑)、でも頑張りたいと思います。さて、天彦先生の趣味がクラシック音楽であることはあまりにも有名ですが、まずはそのきっかけをお願いいたします。
天彦 小学生の頃も、両親に連れられて第九の演奏会などに行ってはいたのですが、中学生になって、福岡から大阪まで「奨励会」というプロ棋士の養成機関に通うようになり、その帰りの新幹線の中ラジオで聴いたドヴォルザークの『新世界より』に刺激を受け、クラシックに目覚めました。
福井 お気に入りの曲をお聞かせください。
天彦 いつでも気持ちよく聴けるのは、モーツァルトの『交響曲第41番ジュピター』です。リラックスしたい時は同じくモーツァルトのピアノ協奏曲、特に17番。集中したい時は、ブラームスの交響曲、特に第1番を選ぶことが多いです。
福井 音楽を聴きながらの集中は、難しくないですか? 私はもちろん平気ですが(笑)。
天彦 研究に集中すると、徐々に音は聴こえなくなってきます。逆に対局中に、それがいいことかはわかりませんが、その場面場面に応じた曲が頭の中で流れることもあります。また、負けが込んだ時も、選び抜いた音楽はすぐに気分を変えてくれますね。
福井 天彦先生はピアノを習っていたんですよね。
天彦 中学生の時にヴァイオリンを買って貰ったのですが、将棋が忙しかったこともあり習うまでには至りませんでした。でも、いつか楽器を習いたいという気持ちはずっと持ち続けていて、22歳の時に念願が叶ってピアノを習い始め、5年間ほど続けました。
福井 22歳というと、プロ4年目。習い始めたのには、何か理由が?
天彦 当時、私は若手の棋士として上を目指していたわけですけれど、同年代で私よりも活躍している棋士がいる中で、なかなか壁を突破できずにいたんですね。そんな時、これからの人生で将棋だけに傾注するのは少し寂しいなと感じ、ピアノを習おうと決心しました。そして、ピアノを始めてからそれほど時を経ずに、自分でも不思議な感覚でしたが、将棋の結果が出始めました。
福井 音楽を学ぶ者は、作品の背後にある時代背景について、また、絵画や彫刻などの諸芸術・文学・宗教など音楽に関わりのある分野について、勉強する必要があります。しかし誤解を恐れずに言うと、私はバックグラウンドを勉強したからといって、曲の解釈が即時的に、劇的に変わることはないとも思っています。ただ、音楽に関わる領域のみならず、様々なフィールドにおける知識・体験から長い時間を経て培われた感性といったものは、絶対に演奏に役立つと感じています。
天彦 福井先生と坂東玉三郎さんの対談(本誌Vol.135)の中でもおっしゃっていましたね。あれ、すごく面白かったです。
福井 要は、日々一つのことをとことん突き詰める努力をする一方で、1日24時間あるのだから、時間を上手く使い、人間としての幅を拡げるために様々なことを経験しなさいということですね。
天彦 おっしゃる通りだと思います。私も将棋というメインになる部分がある一方、それ以外の色々な分野のことを学んだり、楽しんだりすることで、もちろんそれらが直接将棋の技術に転化されるわけではありませんが、人生を総合的に見たときに豊かになれるし、なにより自分自身が幸せに感じられていると思います。逆に、作曲家も、例えばストラヴィンスキーなどは、作風が時期によって全く違いますが、ミクロな視点で見れば、その時期ごとに特定の作風をとことん突き詰めています。つまり、一つの事を徹底的に掘り下げることで、後々色々なことにチャレンジしやすくなるのではないでしょうか。
福井 先生は、名人という頂点に登りつめるところまで将棋を極められたからこそ、そういう心境になられたのでしょう。棋士はスポーツ選手のように若くして引退ということもありませんから、その棋士人生はいわば終わりなき戦いですよね。そうした中で、専門以外の分野にも目を向ける意義は大きいと思われます。そういえば、私、最近サックスを始めたんです。
天彦 えっ、そうなんですか。
福井 まだ僅か1か月ですけど(笑)。輝かしさと柔らかさを兼ね備え、あらゆるジャンルの音楽に対応できるのが魅力的で、ずっと憧れていたんですよ。
天彦 なるほど。サックスで、クラシックとは別ジャンルの曲に挑戦したいと。
福井 もともと洋邦新旧問わずポップスやR&B、ロックなども大好きなんです。ちなみにマイケル・ジャクソンのステージを、国内で7回、ドイツで1回、計8回、生で観たのは自慢です(笑)。古今東西に好きなアーティストがいて、中でもサックスを重用している歌手やバンドが多いんです。例えばビリー・ジョエルとか。あっ、そういえば天彦先生と同じ福岡出身の「チェッカーズ」は、知りませんか?
天彦 分からないです。すみません。
福井 世代が違うんですね。しつこいですが、ボーカルの藤井フミヤさんは知らないですか? 藤井聡太さんではなく(笑)。
天彦 ああ、名前くらいは分かります(苦笑)。
福井 話を戻して(笑)、でも、どうして始めたのかというと、仕事に追われる日々において、自分自身のピアノの練習までこなすのは正直かなり辛いのですが、「やるべきことをやった時だけ、その後将棋やサックスができる」──そう決めていると、仕事やピアノの練習に対する意欲が湧いてくるんです。
天彦 確かに、生活にハリが出るというか、メインの仕事にも良い影響を与える相乗効果があるような気がしますよね。
福井 私にとっての学長や教授としての仕事は、どれだけ役に立てているかはわかりませんが、大学、学生、教職員のため。ピアノの練習は、自分のためではあるけれど、仕事の一部です。でも、将棋やサックスは気楽にできる趣味。下手なりに「良い手が指せた」、「良い音が出せた」とか、日常にそういった喜びがあることで、全体のバランスが取れているような気がします。ただ、来週の天彦先生との対局は、趣味の領域を超えてますけど(笑)