福井直昭学長 対談

佐藤天彦×福井学長 特別対談(前編)2

第74・75・76期名人 佐藤天彦(棋士)×武蔵野音楽大学学長 福井直昭特別対談

将棋・音楽と人生 ── 「人間同士の」将棋の魅力

福井 演奏は(ソロなら)一人、将棋は対局者がいるという点で大きく違うものの、時間を戻すことはできない、ミスを消しゴムで消せない、それは両者似ている部分ですよね。ただ、将棋には考える時間がある、それに反して演奏は始めたら立ち止まることができない。

天彦 たしかに将棋にも「持ち時間」というものがあって、時間を気にしながら指しているわけですが、楽器の演奏ほど時間に追われているわけではありません。実は2回、ピアノの発表会に出たことがあるのですが、リハーサルの時から指が震え、ここまで緊張するのかと、自分自身で驚いたほどでした。焦って、一度家に練習しに帰りました(笑)。

福井 ピアノは、10本の指で弾く音の量からくる暗譜に対する恐怖心がありますからね。

天彦 そうか、圧倒的な情報量を前に、緊張したんですね。どうやら棋士と演奏家には「ミスをした際にどのように気持ちを保つのか」という共通の精神構造が必要な気がします。

福井 それも発表会に出られたからこそ、感じられたことですよね。ミスしてもやり直せないという点では演奏も将棋も同じですが、将棋の対局でマズい手を指してしまうことは、一つのミスが負けに直結するだけに、より厳しいと思います。

天彦 確かにミスがもたらす結果には、興味があります。演奏者がミスをしたとしても、1、2時間の演奏会の中で「ああ、あのミスが痛かったな」というような印象を与えなければ、良いというか構わないというか、そういうことってありますよね。

福井 将棋と違って、演奏に勝ち負けはありませんからね。それと、プロともなれば何度もミスをするということはありませんが、例えミスしたとしても、聴衆としては、それ以上に(修正が可能な)録音とは違う、生の音の素晴らしさ、いま演奏者と同じ空間にいる幸福感の方が勝るのではないでしょうか。まあ、ミスの大小によりますが(笑)。ライブ感といえば、一昨日の朝から昨日未明まで日を跨いで行われた菅井竜也八段との対局(名人戦A級順位戦)のモバイル中継。熱戦に感動いたしました。結果は、天彦先生にとって実に惜しい敗北だったのですが、2人の棋士が焦りや苦しさを乗り越えて戦う姿、おそらく逆転負けが見えたであろう天彦先生の表情、仕草。また、先生のその後の手には、一体どのような思いが込められているのか。一喜一憂しながらも、いろいろ想像力を働かせることで、少しばかり先生の感情を共有できたような気がしました。

天彦 ありがとうございます。そこを評価してもらえるのは、対局者冥利につきます。時間に追われたり、あまりにも難しい局面など、いついかなる時も最良の手を指し続けるのは難しい。時には手痛い失敗もしながらも、こうした選択を積み重ねることで勝利を目指していく将棋は、観ている人の感情に訴えかけることのできるエンターテインメントです。

福井 それこそが将棋の醍醐味ですよね。我々ファンは人間ですから、AIではない、生身の人間が長時間に渡り困難に挑む姿に共感し、惹きつけられます。もちろん今回は「勝って気分良くこの対談にいらして欲しい」という気持ちから、余計、天彦先生に感情移入したのかもしれませんが(笑)。

天彦 苦しい場面で奮闘するのは辛いですし、いいところまで持ち直したのに、結局負けてしまったらダメージが大きいものです。それならいっそ、悪くなったらさっさと諦めて、次の対局に向かった方が精神的にも良いという考えも勿論あるでしょう。棋士の中にも、私のように諦めの悪い方もいる一方で、さっさと投了(対局者が負けを認めて相手に伝えること。その時点で対局が終わりになる)してしまう方もいらっしゃいます。

福井 いわゆる「早投げ」というやつですね。

天彦 はい。早投げした方が、ツキが貯まるという価値観もあり、そういう信条からすると、必死に粘る姿は往生際が悪くて見苦しいということになります。確かに相手の言いなりになって、あたかも土下座をするような手を指さなければならないこともあります。しかし、簡単に投了せず、そんなふうにボロボロになりながら戦い続けることを、私は全く厭いません。むしろ形勢が悪くなってからが本番だとさえ感じます。

福井 まさに天彦先生の大好きな『宇宙戦艦ヤマト』の世界観ですね(笑)。

天彦 登場人物の感情の揺れ動きやヤマトの戦う姿勢は、私の心の幼い部分に共鳴して、いまでも勝負師としての美意識となっています。実際不利な状況の対局中も、ヤマトを自分に重ね合わせて気持ちを奮い立たせたこともありました。

福井 私は学生に「演奏中に緊張し不安な気分になった時は、『何のためにこれまで練習してきたのか? 今みたいな緊張状態になるからこそ、練習を積んできたのではないか』と自問自答し、自らを奮い立たせなさい」と指導しています。実は私たちの毎日も、将棋や音楽と同じで、後戻りのできない選択の連続なのかもしれませんね。

天彦 今日何を食べるか、誰と過ごすか、どんな言葉を発するか。選択を重ねることで山あり谷ありの物語を作っていくという点で、将棋と人生はとても似ていると思います。さらに言えば、その人の人生選択、その人の美意識が、結局のところ将棋の戦法のような具体的なところにもつながっていく、投影していくというように思われます。

福井 過去の選択の蓄積が今の自分を形成しているのだから、先程の話のように、なるべく色々なことを体験することが大事だなとあらためて思いますね。結局自分以外の違う人間になることはできないし、人生の諸々において、その時点で良いと思って様々な選択をしてきているわけで、他の選択をしていたらどうだったかなんて考えても意味がない。

天彦 そうですね。

福井 棋士も演奏家も、一人ひとり壁をどう乗り越えてきたか、自分なりの葛藤を経ることで、棋士なら固有の凝縮された勝負勘、演奏家なら芸術感を身に付けるのだと思います。将棋の盤上で、あるいはステージで、人間性も含めそれらを嘘偽りなくさらけ出して戦う、演奏する。これこそ、本学の教育方針である「音楽芸術の研鑽」と「人間形成」の関係に通じるものだと思います。​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​

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お二方で天彦九段のフェイバリット・ブランドの「アン・ドゥムルメステール」を着用して(於:ブラームスホールホワイエ)
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