福井直昭学長 対談

佐藤天彦×福井学長 特別対談(前編)3

第74・75・76期名人 佐藤天彦(棋士)×武蔵野音楽大学学長福井直昭特別対談

“人間”が宿る創造物 ── 「棋譜」と「楽譜」、「名局」と「名曲」

福井 将棋で、それぞれの対局者が指した手を順番に記入した記録を、棋譜といいますが、いみじくも棋譜の「譜」と楽譜の「譜」は同じ。棋譜を残した対局者は、いわば音楽における作曲家です。天彦先生もご著書の中で「将棋は物語のようなもの。棋譜は対局者同士がつくる作品」とおっしゃっていますが、良い棋譜を残したいという思いは芸術的感覚、創造的意欲からくるものなのでしょうか?

天彦 それは色々と絡み合ってくるものだと思います。将棋は勝者と敗者に分かれる残酷なゲームですので、最終的には勝ちを目指すのは当然です。しかし、ただ勝てばいいという考えは、私が目指すところとは少し異なります。先ほどの話にも重なりますが、勝敗という価値観「だけ」に軸足を置いていると、劣勢の局面では苦しいことしかないわけじゃないですか。ただ、将棋をゲーム、つまり「楽しむためのもの」というスケールの価値観で把捉すれば、優勢な局面だけが将棋の楽しさじゃないわけですよね。劣勢の局面も、そこでどのように局面を長引かせるかとか、相手に対して脅威になる勝負手を突き付けるかとか、そういったことを考えたら、実はものすごくワクワクする局面じゃないかと。そこでモチベーションが高まって、良い手が指せる。勝ち負け以外の視座、つまり悪い局面でさえも美しいと捉えることができる美意識が、結果、局面の打破から巡り巡って勝ちに結びついていく。このことも、最終的には勝敗に収束するという固有性をもつ、将棋の複合性というか、魅力なのだと思います。

福井 例えが拙いですけど、野球観戦だって、10対0のまま終わるより、たとえ負けても諦めなかった結果の10対9のほうが面白いし。

天彦 そうなんですよね。どう転ぶか分からないほうが面白い。

福井 天彦先生がこうした考えに至ったのは、昔から将棋に限らずさまざまな価値観に触れて、視点を多く持つことを意識したからでしょうね。だからこそ勝利にだけ固執するのではなく、他の尺度でも考えられたというか。

天彦 「勝つためには、勝ちたいという気持ちから離れる」という一見矛盾しているように見える方法は、結局目の前の我欲から離れるということです。人に勝ちたい気持ち、名誉欲、金銭欲などは、誰だって多かれ少なかれ持っているものです。しかし、思考をそこから切り離し深い集中に至れた時こそ、勝利を手繰り寄せられるような気がしています。

福井 そうですね。演奏でも「うまく弾いてやろう、人から褒められよう」などと欲をかくことは、間違いなく緊張につながります。あっ、たった今、このことを来週先生と対局する自分自身への戒めとして、心に刻もうと思いました(笑)。さて、そのような思考過程を経て、棋譜が「作品」として完全に残るわけですが、天彦先生がまだ下位のクラスにいた頃は、今と違ってモバイル中継などが充実しておらず、ファンに棋譜を見てもらえないのが辛かったとか。

天彦 そうなんですよね。その内容を一顧だにされることなく、白か黒の結末だけで判断されるのは辛いことで、今トップクラスで戦っていて嬉しいのは、たとえ自分が負けた対局であっても、先ほどの福井先生のように「感動した」という声をいただけることがたくさんあって、これは精神的には全然違います。

福井 様々な信念、人生観が投影され創造された将棋における「棋譜」と、音楽における「楽譜」。あまたあるそれらの中でも、人の心を揺さぶる特に優れたものが、それぞれ「名局」「名曲」として後世まで語り継がれ、また演奏されていくのだと思います。次回は、将棋AIの功罪やファッションなどについてお聞きします(二人の対局の詳報を含め、後編に続く)​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​

 

(2021年10月発行 MUSASHINO for TOMORROW Vol.138 より)

福井学長の初段免状と共に。天彦名人、羽生善治竜王の直筆揮毫(サイン) が並んで書かれている。天彦九段「和紙はボコボコしていて筆がついてこ ないので、かすれてしまいがちなんですが、これはよく書けてる方です(笑)」