ウェブ楽器ミュージアム
楽器ミュージアムに所蔵されている歴史的に貴重な楽器・珍しい楽器を写真と解説でご紹介します。
鍵盤楽器
ユーフォニコン
ユーフォニコンは、ロンドンのジョン・スチュワードが1841年に考案した、弦を張る鉄のフレームがキャビネットの外側に張られたアップライトピアノである。この楽器は、ハープ型のフレームが本体から直立して突き出ているタイプが一般的で、その形状から「ハープピアノ」とも呼ばれる。しかし、写真の楽器は通常のアップライトピアノに近いスタイルで、ユーフォニコンの特殊な例として注目することができる。ユーフォニコンは、金属フレームを視覚的に活用したもので、ピアノの装飾性を強く意識させる目的で登場したと考えられている。
ヴィクトリア女王が統治したヴィクトリア朝時代(1837~1901)のイギリスは、産業革命による経済の発展が頂点を極め、その国力から「太陽の沈まない国」と呼ばれた。この時代は英国文化の最盛期で、ターナーやワッツなどの画家が輩出され、ドイルやディケンズなどの作家が活躍した。特に上流階級の人々の間では、自宅のサロンで茶会を開くことが流行し、そのサロンには意匠を凝らした家具や絵画などの美術品が不可欠であった。そのような中で、ピアノはサロン用の楽器として急速に普及し、イギリスのピアノ・メーカーは市場獲得のために次々に新たなスタイルのピアノを発表した。ユーフォニコンもそのような当時の風潮が生んだ楽器で、目新しいアップライトピアノは、サロンを訪れた人々の目を惹いたに違いない。
写真のユーフォニコンは、金属フレームが優美な曲線のフォルムを形成し、そこに塗られた青色の塗装が清楚な品格を醸し出している。この楽器からは、スチュワードの卓越したデザイン能力を窺うことができる。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

ロンドン
1845年頃
幅115cm
スピネット
バロック時代、ヴェルサイユ宮殿における華麗な建築様式に象徴される、豪華絢爛な王宮文化が花開いた西欧では、音楽の分野においても、人間の精神を開放し情念を再現する、劇的で表現力豊かな楽曲が新たに誕生した。このバロック音楽では、作品の水平的統一性を確保するとともに、垂直的に和音を補完する手段として通奏低音の技法が確立され、その担い手として、チェンバロがあらゆるジャンルの音楽に不可欠な役割を演じた。さらにチェンバロには、それを所有する王侯貴族の品位を示す、高級調度品としての意匠も求められた。多くのチェンバロには華やかな絵画や装飾が施され、その形態も様々なものが存在する。その中で、奏者に対して弦が斜めに張られた形のチェンバロを「スピネット」と呼ぶ。
写真の楽器はイタリアのヴォルテリンが製作したスピネットで、以下の様なイタリア様式によるチェンバロの特徴を併せ持っている。イタリアでは、チェンバロ本体が独立した外側のケース(アウター)に納められたものが数多く製作され、しばしばそのアウターには補強と装飾を兼ねてモールディングと呼ばれる縁取りが施された。また、イタリアのチェンバロの装飾には、ルネサンスをテーマにしたものが多い。ルネサンスは中世の閉鎖的な教会主義からの脱却を目指し、人々の精神的開放を実現させたが、その精神的基盤は古代ギリシアや古代ローマの人々の価値観であった。したがって、多くのイタリアのチェンバロにはギリシア神話や古代ローマ美術の絵画や彫刻が施されている。
この楽器の前面に描かれたゼウスやアポロンなどのギリシア神話の一場面、鍵盤両側に施された立体的な彫刻、そして3本の脚の洗練されたデザインなどからは、優美なイタリア式チェンバロとしての品格が窺える。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

イタリア
奥行き135cm
ポジティーフ・オルガン
ポジティーフ・オルガンの名称は、足鍵盤を持たない小型の据え置き型パイプオルガンに使われる。写真の楽器は、東京バッハ協会の故原田一郎氏が、「辻オルガン」社の創始者、故辻宏氏に製作を依頼した、わが国で戦後初の国産パイプオルガンである。
原田氏はバッハ研究に携わる中で、バッハ研究の大家であり、ノーベル平和賞受賞者としても名高いシュヴァイツァーの著書から、バッハのカンタータの独唱や小編成の楽曲の伴奏の楽器として、ポジティーフ・オルガンが不可欠であることを知った。シュヴァイツァーは、バッハ自身が聖トーマス教会の大パイプオルガンを解体し、独立した小型のオルガンを製作させた事実を取り上げ、バッハがカンタータの伴奏にはこのようなポジティーフ・オルガンを使用していたと主張している。
ポジティーフ・オルガンの購入を決意した原田氏は、外国製の楽器に頼るのではなく、この契機に日本国内で再びパイプオルガンの製作が始まることを願った。国産最古のパイプオルガンとしては、1932年に現在のヤマハ株式会社が製作した記録が残されている。しかし大戦により多くのオルガンが焼失するとともに、パイプオルガン製造の伝統も途絶えてしまっていた。そのような中で原田氏は、日本人の手によるこの楽器の継続的な製造ライン構築の必要性を痛感していたのである。
このオルガンには、限られた面積に効率よくパイプを配置し、前面の扉を閉めることで消音の効果を持たせるなど、日本の家屋での使用に配慮した設計がなされている。この楽器の温かく心に染み入る音色は、わが国のオルガン文化の発展を祈った先達の想いを今の私たちに伝えてくれる。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

日本
1966年
高さ222cm
クララ・シューマン愛用のグランド・ピアノ
85鍵、鋳鉄フレーム、ダブルエスケープメント・アクションという、当時の最新の機構をもつこのコンサートグランドは、世界最高峰のピアノメーカー、スタインウェイ社の母体、シュタインヴェーク社の後継会社によって作られた。開祖ハインリッヒ・シュタインヴェークがアメリカに移り、英語式にスタインウェイと読み変えた新会社を起こした後、長男テオドールが事業を引き継ぎ、グロトリアンと提携し、そのテオドールがやはりニューヨークに移った後、ヘルフェリッヒとシュルツが参加してこの会社ができた。新しい組織になった後も、社名には“Grotrian-Helfferich-Schulz Th.Steinweg Nachfolg.”と、シュタインヴェークの後継会社であることを謳っている。
このピアノはR.シューマンの夫人で、ピアニスト、作曲家としてもその名を残したクララの業績を讃えて、G.H.シュルツ社が1871年彼女に献呈したもので、アクションを引き出した内部には、「クララ・シューマン教授の為の特別使用。ブラウンシュヴァイク1871年」と記された陶器のプレートが取り付けられている。
写真に見られるその美しい外見からも窺えるように、楽器の保存状態は極めてよい。本学創立70周年の記念演奏会の一つとして催された「クララ・シューマンの夕べ」では、130年を経た今も、豊かな音と輝きは変わることなく、聴衆の耳に鳴り響いた。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

1871年
ポケットグランドピアノ
ポケットグランドピアノは、ロンドンのウォルナムが19世紀前半に考案した、特殊な構造を持つピアノである。この楽器は、グランドピアノの上部にアップライトピアノの背面を結合したような形になっている。ウォルナムは、グランドピアノが構造的に持つ問題を解決するために、この楽器を製作した。
グランドピアノの内部は、下からハンマー、響板、弦の順に配置されており、ハンマーは、響板上に張られた弦を打ち上げて発音する。したがって、この打弦により、弦には常に響板から浮き上がる方向に力が加わる。当時の木製フレームのピアノでは、この圧力により、弦と響板とをつなぐ駒などの部位の接着が不安定になるといった問題があった。一方、アップライトピアノは、ハンマー、弦、響板の順に配置されているため、弦は響板に向かって打弦されることから、このような問題が発生しない。そこでウォルナムは、グランドピアノのハンマーアクションの上部に、アップライトピアノのフレーム部分をかぶせた形で配置した楽器を製作し、「ポケットグランドピアノ」と命名した。
ウォルナムはアップライトピアノに関する多くの特許を取得したことで知られる。ポケットグランドピアノは、ピアノの改良に精励したウォルナムが生み出した、創意工夫に富む楽器といえるだろう。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

1830年頃
ロンドン
奥行き156cm
オルフィカ
19世紀前半、いわゆるビーダーマイヤー時代のドイツやオーストリアでは、中産階級の人々に広く音楽が普及し、愛好家は気軽に楽器の演奏を楽しんだ。楽器はしばしば屋外にも持ち出され、行楽でのひと時に花を添えた。オルフィカはこのような時に使われた小型の携帯用ピアノで、1795年にウィーンのK.L.レーリッヒが考案した。この楽器はウィーン式アクションのハンマーを備え、弦を張るフレームが古代ギリシャの楽器リラに似て翼の形をしている。オルフィカの名称はこのリラの名手、オルフェウスに因んで付けられた。
テーブルや奏者の膝の上に載せて演奏され、主に歌の伴奏に使われたオルフィカであるが、興味深いことに、楽聖ベートーヴェンもこの楽器のために作品を残していたことが、近年判った。以前から「やさしいピアノソナタ」として知られ、ベートーヴェンが初恋の女性エレオノーレに贈ったWoO(ベートーヴェンの作品番号を持たない曲に付けられた整理番号)51番の二つの楽章からなる作品は、のちに彼女の夫となったヴェーゲラーの手紙により、オルフィカのために作曲されたものと判明した。さらに自筆譜の紙質や筆跡から、作曲された年代も当初と異なり、1796年から1798年の間であると指摘された。
オルフィカの洗練されたデザインは、優雅な貴婦人が奏でるのにまさにふさわしい。ボン郊外の美しい緑の中で、かつて心を寄せた女性がオルフィカを演奏する姿を思い浮かべながら、ベートーヴェンはこの愛らしい小品を作曲したのかもしれない。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

ウィーン
全長128cm
クラヴィコード
クラヴィコードは13〜14世紀頃、音律研究用の発音具、1弦ツィターのモノコードに打弦鍵盤を取り付けて誕生した。その後、和音を奏する目的で弦数は徐々に増加していったが、同時に奏する可能性のない鍵盤は弦を共有する、フレット式が長く採用されていた。写真の楽器も、隣接する幹音と派生音は同一弦で奏するフレット式で、cとcisやfとfis などを同時に打鍵とすると、高い方の音のみが発音する。
打弦構造は極めて単純で、先端にタンジェントとよばれる真鍮の棒を差し込んだ鍵盤を押下して、タンジェントを弦に触れさせるだけのものである。このため、ピアノと同様の感覚で鍵盤を奏すると、弦に力が加わりすぎて音程が揺れ動いてしまう。したがって、クラヴィコードにおける打弦とは、鍵盤を軽く押さえることを意味し、発音後は指を動かさないという、極めて繊細な奏法が要求される。また、音量は極めて微小であるため、楽器とはいえクラヴィコードは、多くの人に聞かせる演奏会用のものでなく、静かな室内で家族や友人と数人で楽しむ、家庭的な楽器ということができる。
C.P.E.バッハは、打鍵後に音程を変えることができるクラヴィコードの機構を利用して、自分の作品にベーブング(ヴィヴラート)を指定し、この楽器の可能性を限りなく引き出した作曲家として知られている。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

18世紀 南ヨーロッパ 53鍵
幅116cm
グランド・ピアノ(ブロードマン)
ブロードマンはウェーバーも愛用したウィーンの名工で、美しい木目の胡桃材仕立てのこのピアノは、トルコ風音楽の演奏をより効果的に際立たせる特殊なペダルを備えている。右から2番目のペダルは内蔵されたベルを鳴らすことでトルコの小さなシンバルを模し、4番目のペダルは厚紙を弦に触れさせることで低音リード楽器に似せた音を作る。18世紀から19世紀のヨーロッパでは勇壮なトルコ風趣味の音楽が流行し、19世紀前半には、このようなペダルを備えたピアノが数多く生産された。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

1820年頃
ウィーン
テーブル・ピアノ
19世紀、ピアノ音楽の普及とともに、より豊かな音と広い音域を求めて、次々と楽器の改良が進められていく中で、それとは別に、目的に応じた多様な形態のピアノが作られるようになった。テーブルや裁縫台が組込まれたピアノや、ベルトで首から吊るして奏する携帯ピアノのオルフィカ、グランドピアノを立て上げたキリンピアノ等、その様々な意匠からは、この時代のピアノ職人たちの楽器開発にかけた熱い思いが伝わってくる。
製作者のパープは、エラール、プレイエルに継ぐ、フランスを代表するピアノメーカーとして知られ、その豊かな才能から、137もの特許をとる発明を生み出し、フェルト巻ハンマーや弦の張力を分散させる交差弦方式は、今日に残る代表的考案である。
写真のピアノは、やはりパープの特許になる独特な形状の楽器で、鍵盤を奥へスライドさせ、譜面台を兼ねた蓋を閉めると、6角形のテーブルに変身する家具調ピアノで、鍵盤の対面にある蓋には、アンサンブルに便利なように小さな譜面台が取り付けられている。脚部や側面に施された当時流行の中国趣味の装飾や、美しいマホガニーのケースは、上流階級の調度品にふさわしい仕上りで、ワーテルローの戦いでその名を馳せたウェリントン公爵も同じピアノを所有していたといわれている。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

1845年頃
パリ
73鍵
幅112cm
アップライトピアノ(自動演奏装置付き)
写真のピアノは、前面の紙ロールの回転により鍵盤が自動的に演奏し、同時に内蔵された木琴がメロディーを奏でる。また金属片が弦を叩き、きらびやかな音を発する。このような自動演奏装置の付いたピアノは「自動ピアノ」と呼ばれ、19世紀後半に考案され、往年の名ピアニストの演奏を再現できる装置として流行した。
自動ピアノの歴史は、ピンが植えられたバレルを手で回して演奏する「バレル・ピアノ」に始まる。その後紙に穴をあけ、その穴から吸引された空気が弁を動かし、その動きでハンマーが打弦する「ニューマチック・システム」が考案されると、紙ロール式の自動ピアノが登場した。
エジソンの発明した蓄音機がまだ開発段階であった時代、自動ピアノは希少な音楽再現装置として急速に普及し、各社はその開発にしのぎを削った。当初はテンポや強弱を手動で操作していたが、曲想やペダリングなども紙ロールに記録し、演奏を細部まで忠実に再現できるものが登場し、「リプロデューシング・ピアノ」と呼ばれた。また、紙ロールに歌詞が付けられた「ソングロール」も販売され、自動伴奏で歌を歌うことができることから、人々の人気を博した。
1920年代が自動ピアノの最盛期であったが、その後蓄音機の普及と1929年に端を発した大恐慌の影響で急速に生産が減少した。しかし、近年は楽器の実演というアコースティック感が再評価されるとともに、ネット配信の利用など新たな可能性に期待が寄せられている。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

スイス
年代不詳
高さ164cm
ヤンコ・ピアノ
ピアノやオルガンの鍵盤は、12平均律における幹音(白鍵)と派生音(黒鍵)を視覚的・感覚的に直観できる点で、ヨーロッパ人が開発した楽器システムの中でも、最も理想的なものの一つといえよう。しかし、ハンガリー生まれのピアニスト・数学者であるヤンコ(Paul von Janko)は、1882年に新型の鍵盤を考案し、この鍵盤システムにあえて改良を試みた。ヤンコ・ピアノは、ハンマーアクションなどの内部機構は従来のピアノと同様だが、鍵盤だけがヤンコの考案した独自な方式で作られている。
この鍵盤は6列で構成され、横の列は全音に、斜めの列は半音に配列されている。1オクターヴは2列の中で12音に分割され、この2列で鍵数は当時標準の85鍵を数える。鍵盤はこの85鍵の2列を3組配置する。従って同音が必ず3つ存在するために、それらは連動し、同時に押さえることはできない。
この配列の鍵盤は、どのキイを始点にしても、その列と隣接する列とで、全く同じ形の半音階が得られることから、奏者はどの調へも同じ指使いで移調ができる。また、鍵盤に階段状の段差があることから、奏者は常に自然な手の形を維持でき、親指の運指にも無理がない。さらに、キイの幅を狭くしたことで、広い音域での和音演奏が可能になり、角が丸いキイの形状から、隣接のキイを同時に押してしまう危険が回避できる。
彼の発明した鍵盤は、発表当時は人々の評判になり、欧米でブームを引き起こした。ニューヨークではヤンコ音楽院が、ウィーンではヤンコ協会が設立された。しかし、新たな演奏技術の取得が必要なことから、その流行は短く、普及にはいたらなかった。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

1887年
ドイツ
音域A2-a4
高さ131cm
ヨーロッパの管弦打楽器
フラジオレット
フラジオレットは、細長い吹き口の付いたリコーダーの一種で、17~18世紀のヨーロッパで盛んに使用された。上部が丸く膨らみ、中に海綿の球を入れて湿気を取るタイプが一般的で、写真の楽器のように平行3度で鳴らされる二本の管を持つものも作られた。フラジオレットは、手軽な家庭音楽のための楽器であったほか、小鳥に歌を教えるために使われたというユニークな用途を持っている。
18世紀のヨーロッパでは、「ウソ」や「カナリア」などの小鳥にさまざまなメロディを歌わせることが流行した。もともと小鳥は音楽に反応し、音楽に合わせてさえずったり時に歌を覚えて模倣したりする。ハイドンの飼っていたオウムは、ハイドンが良くピアノで弾いていた<皇帝>(現ドイツ国歌)の冒頭を歌うことができたという。さらに、この流行は愛好家の趣味にとどまらず、ドイツでは集団で歌を教え、その小鳥を国外に輸出するビジネスにまで発展した。当時、ベルギーの要人が外国訪問に小鳥を伴わせ、国歌を歌わせたという記録が残されている。フラジオレットはそのような訓練に適した楽器とされ、1717年に出版された『小鳥愛好家の楽しみ』という小鳥のための教則本では、単管のフラジオレットやリコーダーが指定されている。
鳥たちが音楽を好きなことは昔も今も変わらない。豊かな自然に囲まれた武蔵野音楽大学入間キャンパスでは、四季を通して咲き乱れる花に誘われて、さまざまな小鳥たちが集まる。そして、学生の弾くピアノの音や声楽の発声に合わせるかのように小鳥たちは盛んにさえずり続ける。この小さな音大生は、「音楽」が人間のみならず多くの生き物にも影響を与える偉大な芸術であることを、私たちに教えてくれる。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

1830年頃
ロンドン
全長39cm
リュート
フェルメールの「リュートを調弦する女」、カラヴァッジオの「リュートを弾く若者」など、西洋美術ではリュートを題材にした絵画は少なくない。リュートは15~17世紀を中心にヨーロッパで広く普及した楽器で、貴族から庶民まで階層を超えて流行した。
リュートは、アラブのウードという楽器がヨーロッパに伝えられ誕生した。711年、ウマイヤ王朝がイベリア半島に侵攻し、その後15世紀末までスペインはイスラム帝国に統治されるが、この東進したイスラム教徒(ムーア人)によりウードが西欧に伝播した。リュートは13世紀以降にヨーロッパ諸国へ広がり、16世紀ころには基本的な形態と指先で弾奏する奏法が確立された。バロック時代には独奏楽器としても人気を博し、J.S.バッハもソロのための楽曲を残している。しかし10コースを超える弦がもたらす演奏の困難さやあまりにも繊細な音質などから、チェンバロの隆盛やギターの普及などに押され、その後急速に人気が衰えてしまった。
「80歳のリュート奏者は60年間を調弦に費やしたことになる」…1713年、ドイツの音楽理論家マッテゾンは<オルケストラ新設>でこのように記したが、現代の演奏会でも、演奏される作品よりも曲間の調弦の方が長いという場面にしばしば出会う。リュートは、その祖先の地が大木の育たない風土であったことを引き継ぎ、胴体が薄い木材の寄せ木細工で仕上げられ、表板の厚さも2mmを超えることがない。その華奢さゆえに弦は常に調弦を必要とする。しかし、その緻密な作りが織りなす響きは優美で格調高く、現在でもリュートを好む音楽愛好家は絶えることがない。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

ドイツ
全長71cm
ポシェット
ポシェットは、16世紀から19世紀にかけて使われた小型のヴァイオリンで、この名称は、奏者がポケットに入れて持ち運んだことに由来するといわれる。通常4弦だが3弦のものも見られ、一般的にヴァイオリンよりも4度ないし5度高いピッチで調弦された。また3弦のものは1オクターヴ高く調弦されることもあった。この楽器は、ヨーロッパ各地で様々な階層の人々に使われたが、特にフランスにおいては、宮廷舞踊の教師がダンスのレッスンに使用したことで知られる。
バロック様式と宮廷文化が栄華を極めた17~18世紀のフランスでは、王侯貴族の社交の場である舞踏会(グラン・バル)が数多く開催された。そこではバロック・ダンスが高貴で優美な舞踊として好まれ、貴族の子女はこぞってダンスを学び、華やかな社交界へのデビューを夢見た。このレッスンにおいて、ダンス教師は自ら演奏するポシェットを伴奏に、ステップや振り付けの指導を行なったのである。したがって、ダンス教師にはヴァイオリン演奏の技術が要求され、同時にダンス音楽を作曲できる作曲家としての能力も求められた。
絢爛豪華な宮廷で使われたポシェットは、自然に象牙や宝石で飾られ、贅をこらしたものが好まれていく。写真の楽器も、黒檀材の一木造り、ヘッドに彫刻された女性の顔などに、高級嗜好品としての趣が感じられる。ダンス教師にとって美しいポシェットを所有していることはステイタスであった。しかし、やがて宮廷文化の凋落と共に、ポシェットは次第に使われなくなっていく。レオポルド・モーツァルトは、1756年に『ヴァイオリン奏法』の中でこの楽器を紹介し、「すでに廃れてしまった」と記述している。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

フランス
全長46cm
フリューゲルホルン
フリューゲルホルンは、トランペットと同じ音域の金管楽器で、長く太い円錐管の形状を持つ。ブラスバンドや軍楽隊などで使用されるが、その深く柔らかな音色が好まれ、ソロを受け持つことも珍しくない。オーケストラでの用例も見られ、特にヴォーン・ウィリアムズの交響曲第9番では、静寂の中に浮かび上がるフリューゲルホルンの深遠なソロを聴くことが出来る。
フリューゲルホルンは「翼の角笛」という意味のドイツ語で、これは、この楽器の祖形が狩に使用されたことに由来するといわれる。18世紀のドイツでは、一団を組んで大規模な狩猟を行う際に、リーダーは半月型の楽器を吹き鳴らすことで、左右に広がったウイング(翼)のメンバーに指示を行った。このリーダーは「フリューゲルマイスター」と呼ばれ、彼の持つ楽器は「フリューゲルホルン」と呼ばれた。この楽器が現在のフリューゲルホルンに発展した。
半月型の楽器は、その後一重巻きのシンプルなラッパになり、軍隊でも使用され、イギリスではビューグルと呼ばれた。1810年、イギリスのハリディがこのビューグルにキイを取り付け、キイ・ビューグルが考案された。作曲家ブラームスの父であるヨハン・ヤーコプ・ブラームスも、一時この楽器を楽団で演奏していたという記録が残っている。その後1832年に、ドイツのザウレがキイ・ビューグルのキイをヴァルヴ・システムに替えることで、現在のフリューゲルホルンが完成した。
写真の楽器は、金管楽器製作の名門ベッソンが製作したもので、ベルには優美な彫金が施され、ジョイント部分はブドウ柄の金のプレートで装飾されている。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

1910年頃
パリ
全長41cm
サックバット
トロンボーンは、その名称が「大きなトランペット」を意味するように、トランペットから派生した楽器である。中世期、十字軍の戦利品としてイスラムから直管のラッパがヨーロッパに伝わると、楽器保持の便宜から次第に管が曲げられ、15世紀には自然倍音以外の音を出すために、管の長さを自由に変化できるスライド・トランペットが考案された。このスライド・トランペットからトロンボーンが生まれ、当時は「引く・押す」の意味で「サックバット」と呼ばれた。
サックバットは声楽の伴奏に適す楽器として、もっぱら教会で使用された。当時の教会音楽は、複数の声部による流麗な旋律を特徴とするポリフォニー(多声音楽)様式の盛期であった。そのような中で、サックバットのスライド・システムは微妙な音程の変化にも対応することが可能で、声楽の旋律に完全に合わせることができる。この楽器はコルネットと共にアンサンブルを組み、主にアルト、テノール、バスが使われ、それぞれの楽器が合唱の各声域をユニゾンで伴奏した。
サックバットは16世紀から18世紀に至るまで、教会以外ではほとんど演奏されなかった。そのためにオーケストラへの導入が遅れ、作曲家がこの楽器の豊かな表現力に気付くのは、18世紀後半まで待たねばならなかった。トロンボーンが初めて交響曲に使用されたのはベートーヴェンの交響曲第5番「運命」である。一説ではトロンボーンは「神の楽器」と呼ばれたという。その理由には、この楽器のハーモニーの美しさと共に、長年にわたり教会の楽器として敬われてきた経緯も関係しているのであろう。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

1602年
ドイツ
全長110cm
シュトローヴァイオリン
シュトローヴァイオリンは、ロンドンのA.シュトローが1900年頃に考案した、録音用のヴァイオリンである。この楽器は共鳴胴の代わりにアルミの円盤が音を伝え、そこから突き出た拡声ホーンが音を増幅する。
1877年に、アメリカの発明王T.エジソンは銅製の円筒にすず箔を巻きつけ、そこに刻まれた溝の変化により音を録音・再生する装置を考案した。音が文字のように記録される時代の到来であった。その後の蝋管機やSPレコードの登場により、それまで生演奏でしか鑑賞できなかった音楽が、時と場所を選ばずに気軽に楽しめるものになった。
初期の音楽録音は、音の振動をそのままカッター針で原版に刻み込むもので、「アコースティック録音」と呼ばれる。演奏者は録音用の大きなホーンに向かって演奏するが、録音には大きな音量が必要で、声楽の場合はメガホンを使ったという記録が残されている。しかし、ヴァイオリンのように音が広く拡散する楽器においては、いかに音を集約し、それに指向性を持たせるかが課題であった。シュトローは、ヴァイオリンにメガホンのような拡声ホーンを付け、その先を録音用のホーンに向けて演奏するヴァイオリンを発明した。左側に突き出した小さなホーンは奏者が自分の演奏を聴きとるためのものである。
このヴァイオリンはスタジオ用楽器として普及し、他のヴァイオリン属の楽器やギター、ウクレレ、マンドリンなどにも拡声ホーンが付けられた。この楽器は1924年に電気式録音方式が登場すると姿を消す。武蔵野音楽大学楽器ミュージアムは、シュトロー楽器のヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスの希少なセットを所蔵している。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

イギリス
全長61cm
オフィクレイド
ベルリオーズ作曲「幻想交響曲」の第5楽章では、グレゴリオ聖歌から採用された有名な「怒りの日」のテーマが、重々しく鳴り響く。このテーマは現在テューバが担当するが、初演当初はオフィクレイドが使用された。
オフィクレイドは、1817年にパリの楽器製作家アラリが考案した、キイ・システムを持つ金管楽器で、名称はギリシア語の「キイの付いたセルパン(蛇)」を意味する。アルトからコントラバスまでの各種が作られたが、特にバスが普及し、軍楽隊や吹奏楽、オーケストラで使われた。スポンティーニのオペラ「オリンピア」(1819年)に初めて登場し、メンデルスゾーンやヴァーグナーもこの楽器のために重要なパートを書いている。
19世紀前半、オーケストラの金管楽器群にも豊かな低音が求められると、以前から軍楽隊で使われていたS字型の楽器セルパンや、その縦型のアップライトセルパン、さらに新しく考案されたオフィクレイドなどがその役を担った。しかしヴァルヴ・システムを採用したテューバが発明されると、豊かな音量と優れた表現力でそれらの楽器を駆逐し、19世紀後半にテューバはオーケストラに定着した。このテューバの台頭にオフィクレイドは姿を消した。
テューバは、オフィクレイドに比べはるかに大きな音量を誇る。現在、オフィクレイドのために書かれたパートはテューバで演奏されるが、その際に奏者は他の楽器とのバランスに配慮をしている。「怒りの日」のテーマにはファゴットが加わっているが、このファゴットの音をいかに隠さずに演奏するかが、オーケストラのテューバ奏者にとって腕の見せ所である。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

パリ
19世紀中期
全長111cm
アイリッシュ・ハープ
狩の弓に共鳴胴をつけて弦の本数を増やしただけの原始的な角型ハープを、今日の様な支柱をもつ三角形の強固な枠型ハープに改良したのは、中世アイルランドの人々であったと考えられている。今日もアイルランドの紋章にそのデザインを残しているように、ハープはアイルランド王室の象徴となっていた高貴な楽器であったが、12世紀の終わり頃になって、大道芸人たちの間で普及するようになって、その地位を失っていった。 しかし、彼らの演奏技術は非常に高度なものであったらしく、それを聞いた英国王ヘンリーⅡ世の宮廷付聖職者バリは、「こんなに速い指の動きで音楽が奏でられ、一つも間違わないで曲が完全に奏される…」と、感嘆の声を上げている。 写真の楽器は、19世紀に作られたものではあるが、ダブリンのトリニティー大学に残されている、中世のアイルランド王ブライアン・ボルーのものといわれているハープと、ほぼ同じ形である。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

アイルランド
高さ96cm
ヴァイオリン
このヴァイオリンは、名工、菅沼源太郎が製作し、昭和44年に武蔵野音楽学園創立40周年記念の祝品として、楽器ミュージアムに寄贈された楽器である。
わが国におけるヴァイオリン製作の黎明期、菅沼は草分けの一人として独学で技術を習得したが、その妥協を許さない徹底した仕事ぶりは高く評価された。当時、鈴木梅雄、宮本金八、菅沼源太郎の3名は、わが国ヴァイオリン製作の3権威と称されている。
菅沼は明治28年に静岡県に生まれた。17歳で浜松の山葉楽器製作所(現ヤマハ株式会社)に就職し、ヴァイオリンの修理を担当した。大正13年、第1号のヴァイオリンを完成させた後、昭和2年に独立し、東京に工房を持った。彼は宮内庁御用達という名誉ある肩書きを持って生涯に120本を超えるヴァイオリンを製作している。昭和44年に紺綬褒章を受け、昭和50年に80歳でその生涯を閉じた。
菅沼はヴァイオリン製作の傍ら、昭和44年より本学楽器管理室に勤務し、学生達の使う弦楽器の修理・調整に携わっている。その縁もあり、本学では彼自身が使用したヴァイオリン製作工具類139点の寄贈も受けている。
菅沼は生涯をヴァイオリン製作一筋に捧げた。「私は生れてこのかた、一度も宣伝をしたことがない。宣伝などしなくても私は私なのだ。私の腕を知ってくれる人が求めてくれればよい」―昭和37年に掲載された日本経済新聞の記事での言葉からは、明治生まれの職人らしい気骨あふれる彼の人柄がうかがえる。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

1967年
日本
全長59cm
クロマティック・バスホルン
ピストンやロータリーなどで管長を変えるヴァルヴ・システムは、自然な響きを損なわずにさまざまな音高を得ることが可能で、多くの金管楽器に普及している。しかし、ベルリンのシュテルツェルがこのヴァルヴ・システムを発明する1815年より以前の金管楽器には、木管楽器のように管に穴を開け、キイを取り付けたものが多数見られた。このような楽器のひとつがバスホルンで、1790年代に、当時フランス革命の動乱を避けロンドンに避難していたフランス人、フリショにより考案された。
S字型の吹奏楽器セルパンの奏者であったフリショは、自然な体勢で楽器を構えられるように、セルパンを縦型に変えバスホルンを考案した。この楽器は主にイギリスの吹奏楽で人気を博したことから、イングリッシュ・バスホルンと呼ばれた。さらに1820年、ドイツのシュトライトヴォルフは、3~4キイしか装着されていなかったバスホルンに多数のキイを加え、無理のない運指で半音階が演奏できる楽器としてクロマティック・バスホルンを考案した。この楽器について、当時の音楽新聞は、すべての半音が澄んだ力強い音で演奏できると紹介している。
金管楽器にキイを付ける方法は、正確な音程の確保や音色の統一が困難なため、主に内径の大きな低音楽器に用いられた。バスホルンは、後に登場するオフィクレイドにその座を譲る。オフィクレイドは、キイを装着した低音金管楽器としては比較的普及したが、やがてヴァルヴ・システムを備えたテューバの台頭により姿を消した。バスホルンは、セルパンからオフィクレイド、そして現在のテューバ、ユーフォニアムに至る低音金管楽器セクションの発達過程を検証する楽器と位置付けることができる。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

ドイツ
1830年頃
全長128cm
ヘッケルフォーン
ヘッケルフォーンは、大作曲家ヴァーグナーの提案により、ドイツの楽器製作者ヴィルヘルム・ヘッケルが考案した、バリトン音域のダブル・リード楽器である。
1905年に書かれたヘッケルの手記によれば、1879年、バイロイトに滞在していたヘッケルに、ヴァーグナーは「オーボエより1オクターヴ低い音域において、オーボエのように柔らかな音色で、アルプホルンのように力強い音を持つダブル・リード楽器が欠けており残念に思っている」と話した。この言葉に23歳の若きヘッケルは創作意欲を掻き立てられた。彼はそのような楽器には大きな空気柱が必要と考え、1904年に広い円錐形の内径を持つ新たな楽器を完成させた。しかし、ヴァーグナーはすでに世を去っていた。この楽器が初めて使用されたのはリヒャルト・シュトラウス作曲のオペラ「サロメ」で、この作曲家はヘッケルフォーンを高く評価し、オペラ「エレクトラ」や「アルプス交響曲」などでも活用している。ヘッケルフォーンはその後ヒンデミットや現代作曲家らにより使用されたが、それほど普及せず今日に至っている。この楽器はバス・オーボエの代用としても使われ、ホルスト作曲組曲「惑星」の演奏で、しばしばその例が見られる。現在までに約150本が製作され、1955年以降はほとんどがコンセルヴァトワール方式のキイシステムで作られている。写真の楽器はドイツシステムで作られた初期の希少な資料である。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

1906年
ドイツ
全長112㎝
フルート
19世紀は、多くの楽器にとって改良と機械化の時代であった。木管楽器もその例外ではなく、より正確な音程、より均一な音色、より優れた材質の追求といった、様々な展開がなされたが、中でもフルートほど劇的にその形態を一新させた例は他には見あたらない。フルートは一人の才能豊かな楽器製作者により、一挙に理想的な姿を授けられた。
19世紀半ば、ドイツのフルート奏者・製作者であるテオバルト・ベームは、フルートに革新的な構造改革を行い、今日「ベーム式」と呼ばれ、最も広く普及するフルートを完成させた。ベームはこの改革を大きく2回に分けて行っている。まず、彼は最初の改革で、トーン・ホールを大きくすることが、フルートの音量を増大させ、なおかつ音程と音色を改善する効果があることを発見したことから、フルートの音孔を拡大し、それらを音響学的に正確な位置に設定し直した。そして、その配置に合うように、金属棒に連動するリング(指輪型)・キイを採用した全く新しいキイ・システムを考案した。
さらに次の改革で、やはり音響学的見地から、それまでの木製円錐管フルートを金属の円筒管に一新させるとともに、リング・キイを、拡大した音孔を確実に塞ぐことのできるカヴァード・キイに替えた。これにより遠隔転調と音色効果の追求による多様な半音の変化に対応し、同時にコンサート・ホールの拡張に伴う音量増大の要求にも応える、理想的なフルートの形態が確立した。
写真の楽器はベーム自身が製作したフルートで、1832年に行われた彼の最初の改革を検証する、貴重な資料である。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

1832年頃
ミュンヘン
全長67cm
ティンパニ
「あのように巨大な鍋に似て、馬の背に乗せて運ばれる太鼓は、いまだかつて見たこともない」—1457年、ハンガリーの王ラディスラウスV世が、フランスのシャルル王の娘マドレーヌを妃として迎えるためにパリに送った使節団を見て、フランスのブノア神父は驚きのあまりこう言った。17歳の若き王は、13歳の王女との結婚を目前にして病に倒れ、不慮の死を遂げてしまったが、使者500人以上、馬700頭という大行列は、ヨーロッパの人々にセンセーションを巻き起こした。中でもとりわけ目を惹いたのが、26台の荷車を曳く馬の背に乗せられた大きな太鼓であった。
ヨーロッパでは、13世紀頃に中東から小型の鍋型太鼓が伝わり、肩や腰に吊るしたり地面に置くなどして使用した。一方オスマン帝国では、軍楽隊が大型の鍋型太鼓を馬や駱駝の背に乗せて演奏したが、これが15世紀に西ヨーロッパに伝わり、ティンパニが誕生した。
ティンパニは、まずドイツ語圏の軍楽隊により、伝統的なオリエントの習慣に従ってトランペットと対で演奏された。その後もヨーロッパ各地の軍楽隊や騎兵隊に普及し、トランペットと共に部隊の花形楽器となり、奏者にも名誉が与えられた。17世紀には、オーケストラへ導入されたのを機に馬から降ろされ、鉄のスタンドが付けられた。19世紀になると、現在の楽器のような調律機構が考案されていった。写真の楽器は四角いネジを工具で回して膜の張力を変化させるもので、18世紀のオーケストラでは最も一般的に演奏されたタイプのティンパニである。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

ドイツ
直径右54cm・左51cm
スライド・トランペット
スライド・トランペットは、ピストンを持たないナチュラル・トランペットにスライド管をつけた楽器で、ルネサンス時代に登場した。通常はマウスピースのパイプ部分をスライドさせるが、イギリスでは、ベルの先のU字部分をスライドさせる方法が取られた。写真の楽器は、このタイプを参考に、19世紀に新たにイギリスで開発され、主にイギリス国内で演奏されたもので、「イングリッシュ・スライド・トランペット」とも呼ばれる。
この楽器は、U字管がトロンボーンとは逆方向、すなわち奏者の後方にスライドされる。奏者は左手で楽器を支え、右手の指でスライド管の取手を手前に引く。これにより全音分の音域が拡大され、ほぼ2オクターヴの半音階が演奏可能になる。奏者が手を離すと、ドラムに内蔵されたぜんまいが紐を巻き上げ、スライド管は元の位置に戻される。
当時、ヴァルヴ・トランペットの台頭にもかかわらず、イングリッシュ・スライド・トランペットは、19世紀を通してイギリス国内で圧倒的な人気を博した。そこには、名手ハーパー親子の功績が見逃せない。二人の演奏するスライド・トランペットは、澄んだ高貴な音色で聴く人を魅了したという。この楽器は軽快なパッセージの演奏には向かず、やがて姿を消したが、名演奏家の奏でたナチュラル・トランペット本来の自然な響きは、当時の人々にとって忘れ難いものとして心に残ったに違いない。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

1850年頃
ロンドン
全長58cm
ヴィオラ・ダ・ガンバ
ヴィオラ・ダ・ガンバは「脚のヴィオラ」の意味で、この名は奏者が脚ではさんで構えることからつけられた。この楽器はヴィオールとも呼ばれ、バス、テノール、アルト、トレブル(ソプラノ)の4種類が基本的に使われる。
ポリフォニー音楽(多声音楽)が一般的な作曲様式として最も発展した15〜6世紀のヨーロッパでは、それまではっきりしていなかった声楽と器楽の区別が明確になり、器楽においても、合唱に匹敵する新たな合奏形態の構築が求められた。そのような中で、1500年頃に、ヴィオール族とヴァイオリン族という、二つの異なる楽器群が登場した。ヴァイオリンは当初、庶民の楽器として、主に祭事や歌の伴奏に使われたが、ヴィオールは優雅で上品な響きを持つ楽器として、宮廷やサロンで演奏された。特にイギリスでは、バス、テノール、トレブルおのおの2本ずつの6本セット(Chest of Viols)が上流階級の必需品であった。また、ヴィオールは独奏楽器としても使われ、J.S.バッハやM.マレーなど、多くの作曲家が独奏曲を作曲している。しかし、やがてホモフォニー音楽を主体とする古典派の時代が訪れ、独奏楽器には声楽のソプラノに対抗できる華やかさと豊かな表現力が求められると、典雅なヴィオールは次第にヴァイオリンに席を譲り、姿を消していった。
写真の楽器はヴァイオリン製作の名匠、アマティ兄弟作のバス・ガンバで、塗金された獅子の彫刻や二重のパフリング(縁取り)に往年の隆昌を思わせる逸品である。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

1614年
クレモナ
全長 123cm
サクソフォーン・クァルテット
ベルギー陸軍御用達の父親の工房で、アドルフ・サックスはバス・クラリネット改良の特許を、24歳で取得した。これを皮切りに楽器の改良と発明に乗り出したサックスは、1845年のサクソルン、翌年のサクソトロンバおよびサクソフォーンと、次々に新しい楽器を発表していった。
自身がブリュッセルの音楽院でフルートとクラリネットを学んだ演奏家でもあったサックスは、サクソフォーンの発明と同時に、各地で演奏会やデモンストレーションを行い、パリに出てベルリオーズ、マイヤーベーア等、高名な作曲家たちと親交を結び、サクソフォーンの普及に努めた。
サクソフォーンは、発明当初から楽器の完成度が高く、普及のための努力の成果もあって、新興の楽器でありながら、多くの作曲家に受け入れられるようになった。そうした作品の中には、ビゼーの〈アルルの女〉をはじめ、ラヴェルの〈ボレロ〉や彼が編曲した〈展覧会の絵〉のように、誰もが一度は耳にしたことのある、サクソフォーンのソロを聞かせる名曲も多い。
同族楽器として、ソプラニーノからコントラバスまで7種の楽器が作られたが、ソプラノからバリトンまでの4種が最も利用頻度が高く、サクソフォーン・クァルテットの標準編成になっている。写真の楽器は、その4本全てがサックスの工房で作られたセットで、今日では希少なコレクションといえよう。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

1861〜75年
パリ
全長60、61、80、103cm
シャノー型ヴァイオリン
ヨーロッパにおける楽器は、正確な音程、均一な音色、豊かな音量、そして優れた機能性を追求した高度に完成された道具である。特に楽器の王といわれるピアノは、より効果的な機能を求める楽器製作者の絶え間ない努力により、長い年月をかけ今日の姿へ整えられていった。一方、楽器の女王といわれるヴァイオリンは、誕生当初から既に完成されており、その後は改良の余地がなかった。それでも楽器職人たちはヴァイオリンに新たな可能性を求めて、様々な改良型を考案している。その中のひとつが、フランスの海軍士官であったフランソワ・シャノーが1817年に発表した「シャノー型」ヴァイオリンである。
この楽器の胴体はギターに似て滑らかな8の字型で、弦もギターと同様、直に表板に張られている。シャノーは、駒の振動を速やかに伝達するためには、表板の木目をなるべく生かすことが重要であると考え、ヴァイオリンのf字型の響孔を棒状に替えた。また、一番上の糸巻きに弦を差し込む際、邪魔にならないように、渦巻きを逆にした。
この楽器については、クレモナの銘器よりも優れているという評価もあったが、音の急速な減衰などを指摘する否定的な意見が多かった。それでもシャノーは諦めることなく製作を続け、ヴァイオリンの他、ヴィオラ、チェロの製作も手掛けている。幾多の弦楽器の改良の試みが徒労に終わった中で、シャノー型は比較的健闘した楽器といえるだろう。本学楽器博物館は、シャノー型のヴァイオリン・ヴィオラ・チェロのセットを所蔵している。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

パリ
全長60cm
日本の楽器
箏
すっきりとした外見の現代の箏とは対照的で、絢爛豪華な装飾で彩られた飾り箏は江戸時代中期以降に発達した。このような美しい装飾が施された日本の楽器は、一般的に美術館などで「美術工芸」として扱われていることが多い。そこで今回は楽器の装飾に焦点をあてて、この写真の楽器の魅力に迫りたいと思う。
先ず一番目をひくのは、楽器の両側面に施された草花の金蒔絵であろうか。紫檀材を薄く貼った上に、松・梅・土筆・蕨・れんげ・たんぽぽ・すみれ・百合・牡丹・葦・藤袴・菊・すすき・女郎花・萩・桔梗・南天・水仙という18種類の草花が春夏秋冬の順番で描かれている。附属の象牙製箏柱にも同じく四季の草花や生き物が描かれている。
箏頭部側面の龍(りゅう)舌(ぜつ)の周りは源氏香の紋様で縁どられて、洗練された格調高さを漂わせている。源氏香とは江戸時代初期に完成した優雅な香文化のひとつで、何種類かの香木を組み合わせてその異同を競い合う組香の一種である。源氏香の場合、5種類の香木の異同を競い、5本の縦線に同香のもの同士を横線で結ぶ。全部で52通りになるこの組み合わせには、源氏物語54帖のうち巻頭「桐壺」と巻末「夢浮橋」を除いた52帖全てが結びついており、各々の記号には巻名がつけられている。この香文化が生んだ縦と横だけで表した記号紋様は、意匠のもつ単純性と抽象性が日本人の嗜好と合い、また古典文学と結びついているという奥深さの点でも好まれたのであろう。江戸中期以降庶民に広く愛され、和菓子や着物の図柄、浮世絵、建築、工芸など様々な分野の作品に取り入れられている紋様なのである。
また、頭部上面の玉(たま)戸(ど)周囲は、象牙象嵌・木画技法の細緻な八段飾りが施され、中央には彫金で玉取り龍がつけられている。さらに箏の尾部にはべっ甲の上に横笛を吹く奏楽飛天が描かれている。日本人の美的感性と江戸職人の匠の技が凝縮されている誠に贅をつくした名品である。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

1846年(弘化3年)
日本
全長 192cm
伶(れい) 人(じん の) 舞(まい)
宮廷の音楽として平安時代に隆盛した雅楽は、応仁の乱以降、京都の荒廃とともに多くの楽人たちを失ってすっかり衰退してしまった。この危機的状況を救ったのが京都の楽人のほかに天王寺(大阪)や南都(奈良)から楽人を加えて新たに結成した「三方(さんぽう)楽所(がくしょ)」である。この三方楽所の出現により再び雅楽は復興の兆しをみせる。江戸時代になると、泰平の世と徳川幕府の庇護のおかげで、雅楽は楽人や諸大名が行うほか、地方の藩校などでも教習されて広く一般にも普及した。経済的に豊かな藩主が三方楽人に入門することもあった。このように雅楽は江戸時代に再び盛んになり、平安期に次ぐ第二の隆盛期ともいわれている。
写真の絵巻物は、舞楽曲を舞う伶人の様子が描かれたもので、上・中・下の三巻にわたって全51曲が収められている。三巻を収納する桐箱の蓋上面には、「進上 伶人舞 三巻 尾張中納言」という墨書があり、尾張中納言に献上された品であることが窺える。製作者に関する手がかりは少ないが、その画風から土佐派の流れをくむ人物の作品で、雅楽が隆盛し始めた江戸時代初期から中期頃に描かれたものではないかと推測される。
尾張徳川家では、式楽である能楽とならんで雅楽も古くから盛んにおこなわれており、中でも初代藩主義直、2代光友、3代綱誠は音曲に造詣が深かったと伝えられている。特に父家康譲りの学問好きで知られる初代義直は、雅楽への関心も高く、3代将軍家光に楽箏を献上したり、真(ま)清田(すみだ)神社の雅楽の再興に尽力した人物でもある。
16代続いた歴代尾張藩主の中で「尾張中納言」と呼ばれた者は半数近くいたが、この絵巻物の献上先として可能性が高いのは、作品の年代などから推測すると2代光友(のちに権大納言)、3代綱誠あたりが有力ではないかと思われる。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

日本
六つ折三味線
風呂敷や扇子、着物などに見られるように、より小さく折りたたんで収納する、あるいは持ち運ぶというという手法は、私たち日本人が古くから得意とし大切にしてきたものである。自らの足でさえも折りたたむ正座の国日本では、屏風や掛け軸のような絵画においても、折りたたみ式が主流である。今回はこうした日本の「折りたたみ文化」が生んだユニークな三味線を紹介する。
元来、初期のころの三味線は折りたたみ式ではなかったが、楽器の日本的な完成に伴って、次第に携帯の利便性を考えて棹が折りたためるタイプが誕生した。はじめは棹を二分割する「二(ふた)つ折(おり)」が登場し、後に現代のように、棹を三つに分割できる「三(み)つ折(おり)」が一般的となった。写真の楽器は、「六(む)つ折(おり)」になるめずらしい種類である。分割した三味線は、胴がすっぽり入るほどの桐箱にコンパクトに収納することができる。
このように、棹の分割が可能となった背景としては、紅(こう)木(き)や紫檀など硬質な唐木を棹に用いるようになったことがあげられる。唐木を用いた楽器や工芸品は正倉院御物にも見られるが、当時はあくまでも上流階級に限られたものであった。しかし、江戸中期以降になると、需要の高まりとともに活発な輸入によって、唐木の製品が庶民の手にも届くようになったのである。また同時に、硬質な唐木に精巧な加工を施して、凹凸を組み合わせることによって接続する「ほぞ組み」の技術が進歩したことで、今日のような分割の棹が一般的となっていった。
写真の楽器は、三味線棹としては最高級の紅木材で、「朱入り」と呼ばれる手法が施されている。これは、木目の柔らかい部分と硬い部分をより均一にするために、漆をかける前に棹に何度も朱を塗り込んで磨く手法であるが、現代では手間がかかるため稀少である。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

日本
全長96cm
魚板
縁起物として古くから日本人に貴ばれてきた鯛をまるごと楽器にしてしまうという、新春にふさわしい「めでたい」風貌のこの楽器、名を魚板という。
魚板は禅との関わりが深く、主に禅宗の寺院などで用いられる。大型のものでは数メートルにも及び、寺院の堂内に吊るされた姿は圧巻で一際存在感を放つ。小型のものでは50センチメートルぐらいからあり、主に茶事で用いられることが多い。
修行僧たちは寺院で毎日規則正しく清規(しんぎ)の定めに従って生活を行っているが、これらの合図には言葉を用いず、すべて鳴らしものの種類によって区別して知らせるのである。魚板もこのような鳴らしものの一種で、食事を知らせる合図などで打ち鳴らされる。魚形という個性的な形体には意味があり、魚はまぶたがなく昼夜を問わず目をつぶらないことから、修行僧に対して居眠りを戒めるという意味合いが含まれているようである。
京都黄檗山(おうばくさん)萬福寺に代表されるように、通常は鯉や龍などをモチーフとしている例が多く見られ、写真のように鯛をモチーフとした方が少ないようである。鯉や龍が口に珠をくわえていたり、頭部は珠取り龍で尾部は魚形という変型例もある。珠にもまた禅の考えに基づいて三つの煩悩(むさぼり、怒り、愚痴)を表す意味があり、これらを吐き出そうとしているのである。
中国では、鯉は古くから信仰や食習慣と結びついて最も珍重された魚であった。日本でも中国文化の影響を受けて古代から中世にかけて鯉が珍重された時期もあったが、いつの間にか魚の王は鯛となった。鯛の赤が吉祥を表す色として慶祝の象徴になり、端整な姿が日本人の嗜好に合致して鯛信仰を生んだのだろう。そう考えると、所蔵する写真の楽器は、禅とともに中国から伝来した可能性の高い魚板が、その後日本的に転化したタイプと考えられないだろうか。
なお、お寺の楽器として私たちに親しみのある木魚は、実はこの魚板から派生したものとも言われている。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

日本
三味線
江戸時代、三味線の名工として代々続いた石村近江は、時に「三味線のストラディヴァリウス」とも呼ばれる。その近江の中でも初期のものは、特に「古近江(こおうみ)」と呼ばれて昔から珍重されてきた。
「古近江と しらず弾いている ひんのよさ」
「古近江で 岡崎を弾く お姫様」
「古近江の 糸まだいいのに かけかえる」
いずれも「古近江」を詠った川柳である。「岡崎」というのは初心者が最初に習う曲で、さしずめ、「ストラディヴァリウスで、教則本を弾く、お姫様」といった感覚であろうか。三味線は、江戸時代に歌舞伎と結びついて、庶民を中心に人気を博していったが、この「古近江」ブランドは、庶民にとってはなかなか手の届かぬ憧れの存在であったことが、これらの川柳からも窺うことができる。
石村近江一族の詳細については、文献によっても諸説あるが、今日、高級な三味線には必ずと言っていいほど入れられる胴内部の「綾(あや)杉(すぎ)」と呼ばれる彫りは、もともと鼓職人の家であった石村近江家が、鼓胴の彫りを三味線に応用したのが始まりであると言われている。
写真の楽器に附属されている証書にも、「この楽器の綾杉技法は、先師から正統的に伝えられたものである」ということが製作者自身によって記されている。
棹は樫材で、表面は紅木の薄材で面剥ぎがされた「薬(や)研彫(げんぼ)り」と呼ばれる特殊なつくりである。薬研彫りとは、上面・側面のどちらから見ても異なる二種の材が見えないように、出会う部分の角が直角ではなく、折半してはめ込まれているという精巧な細工のことで、高い技術が求められ、残存する近江の三味線の中でも稀少なものである。また、棹下部と胴には、製作者を表した焼印が入れられている。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

天保13(1842)年
日本
全長96cm
笙銘 節摺
この笙の持つ「節摺」という銘は、竹管の節が平らに削られているその外見上の特徴に由来している。箏製作家であり邦楽研究家でもあった故水野佐平氏寄贈の「水野コレクション」の中でも、最古の楽器としてこれまで知られてきた。この楽器については、「MUSASHINO for TOMORROW No.20」ですでに紹介したが、この度、附属文書を含む資料の詳細な調査によって、来歴などが明らかとなった。
調査の結果、この楽器は、代々楽人である林家に受け継がれてきた名器であり、天明元年(1781年)、仙台藩伊達家に譲渡されたものであることが判明した。明治期に記された伊達家宝物を記した目録には、楽器の項目の筆頭に「節摺」の名が記載されており、伊達家においても、宝物として「節摺」が大切にされてきたことが窺える。
附属の箱は、譲渡された際に、伊達家において製作されたものと考えられる。蓋の見返し部分には竹の金蒔絵が施されていて、2種の作銘が入れられている。これはそれぞれ、下絵を施した狩野栄(えい)川(せん)院典(みち)信(のぶ)(10代将軍家治に寵遇された幕府奥絵師)、蒔絵を施した中西松(しょう)立(りゅう)斎(さい)達(さと)栄(ひで)(仙台藩お抱えの蒔絵師)を示すもので、歴史的工芸品として価値の高いものである。
また、笙の匏(ほう)部分に施された竹の金蒔絵は、京都の印籠蒔絵師・塩見政(まさ)誠(なり)によるものであり、さらに、匏上面に入れられた銘は、伏見宮邦永親王によって書かれたものと、名器と言われるに相応しい格調高さが感じられる逸品である。
なお、水野氏自身、特に思い入れの深いコレクションのひとつとして、この「節摺」を回想録の中で紹介している。
(水野コレクション・武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

日本
全長54cm
磬(けい)
磬は、仏教伝来とともに日本に伝えられた法具であり、その祖形は古く古代中国まで遡ることができる。「磬」という漢字は、「石」と「殸」組み合わせて作られたもので、「殳」には打つという意味があることから、「打ち鳴らす石製の楽器」を表している。「磬」という字源に表されている通り、中国の磬は、元来石製もしくは玉製であった。中国には古くから、楽器の素材によって「金(金属)・石・竹・土・革・糸・木・匏」の8つに分ける独自の楽器分類法「八音(はちおん)」があり、この中でも磬は金部ではなく石部に属されている。
日本では銅製(鉄製の少数例もある)が一般的で鋳造である。初期の頃には片面のみに装飾を施した片面磬も見られたが、次第により華やかな両面磬が作られるようになった。桴で打つために模られた中央部の撞座(つきざ)およびその左右には、仏教と縁の深い蓮をモチーフとした蓮華文や蓮唐草文、蓮池文の他、宝塔文、孔雀文、鳳凰文など様々な装飾例が見られる。
写真の楽器は、幕末から明治にかけて活躍した金工師、秦蔵六(1823~1890)の長男で、2代目(1854~1932)の作である。現行では一般的な連弧式山形を成しており、両面に葡萄唐草文が施されている。初代蔵六は、孝明天皇の銅印、徳川慶喜の征夷大将軍の金印の鋳造を手がけたことでも知られる。2代目蔵六は、初代の作風を受け継ぎ、明治6年(1874年)には、宮内省の命を受けて、初代とともに明治天皇の御璽(ぎょじ)・国璽(こくじ)を鋳造した。この国璽は、3寸方形の金印で「大日本国璽」の5文字が刻されており、現在も勲記に用いられているものである。「蔵六」の名と鋳造技法は代々継承され、今日に至っている。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

日本
高さ75cm
弦楽四重奏用楽器セット(ヴァイオリン2本・ヴィオラ・チェロ)
「宮本金八君。形を模倣すると永久にものの心を捉えることはできない。また、作るということにのみ執心すると決してものの真をつかむことはできない。これは私の創作に対する信条のひとつです。作るのではなく生み出してください」―大正12年、作曲家山田耕筰は宮本金八にこのような手紙を贈り、ヴァイオリン製作の真髄を極めるよう励ました。
宮本金八は、大正から昭和にかけて多くの作品を残した、わが国におけるヴァイオリン製作の草分けである。教本も無く師匠も不在の時代にあって、独学でヴァイオリン製作の技術を習得したのにもかかわらず、彼の作り上げた楽器は、多くの著名な演奏家から高く評価された。当時来日したハイフェッツやクライスラー、フォイヤーマンなどが賞賛の言葉を残し、モギレフスキーは生涯を通して宮本の楽器を3本愛用している。
ヴァイオリン製作において宮本は、単に外国製品の模倣に終わることなく、常に自身の個性を生かすよう努めた。そのため彼の楽器には独自のスタイルが確立されている。のちに宮本はこの「個性への開眼」こそが、自分のヴァイオリン製作で最も重要な転機であったと述べているが、まさに山田耕筰の助言が実を結んだ瞬間であったといえよう。
写真の弦楽四重奏用セットは、宮本金八自身が最高傑作として生涯手放さなかったものである。この楽器を引き継いだ宮本敏彦、紀(とし)ご夫妻は、星城大学教授の武田洋平氏を通して、平成12年にこの貴重なセットを本学に寄贈した。このセットは厳選された同一の素材から作られており、本学ベートーヴェンホールでの受贈記念コンサートでは、4本の楽器の響きがみごとに融合し、満員の聴衆を魅了した。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

1934年
日本
長さ59cm・59cm(Vn)65cm(Va)、123cm(Vc)
尺八三種
日本人と竹の関わりの歴史は古い。平安時代の作品『竹取物語』に見られる神秘性や、新年を祝う門松の例からもわかるように、竹は松とともに古来から神の依代になるものと信じられてきた。一方、節があり、しなやかで軽く加工がしやすいという特徴をもつ竹は、竹工芸や茶道、日本建築など様々な日本文化の中で欠くことのできない存在として重宝され、日本文化を象徴する素材のひとつになっている。竹を用いた楽器も笙・篳篥・笛類など豊富にあるが、中でも尺八は、竹の根に近い部分を管の下端に活かした素朴な形状で、その音色とともに、自然を尊ぶ極めて日本らしい感性から生まれた楽器であると言えよう。
一言で尺八と言っても、歴史的なものを含めるといくつかの種類がある。最も古い古代尺八は唐代の楽器が伝来した6孔のもので、正倉院などに遺例を見ることができる。その後中世になると、一節で5孔の「一節切」が誕生して、貴族や僧侶、武士などに愛好されるようになった。写真右の楽器は、当時名手として知られた原是斎(1580-1669)の作である。今日尺八として広く知られているのは、写真左の「普化尺八」と呼ばれる種類で、名称は江戸時代、主に普化宗の法器として用いられていたことに由来する。楽器の下部には、金蒔絵で雛人形が上品に描かれている。
明治時代以降、近代化の波は邦楽界にも大きな影響を及ぼした。西洋音楽の普及とともに、大正から昭和初期には新しい日本音楽が模索され、様々な改良邦楽器が生み出された。写真中央の「七孔尺八」楽器もそのような時代の中で誕生したもので、より均一な半音階をもとめて、普化尺八の指孔を7つに増やした改良楽器である。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

17世紀前半
原(はら)是(ぜ)斎(さい)作
全長33㎝
普化尺八(銘 貫出)
製作年・製作者 不詳
全長49㎝
七孔尺八
製作年不詳
富山松揚(とみやましょうよう)作
全長40㎝
日本
平家琵琶
「祇園(ぎおん)精舎(しょうじゃ)の鐘の聲(こえ)、諸行無常の響きあり…」—有名な「平家物語」の冒頭の一節である。移ろうからこそはかなく、はかないからこそ美しいという、日本人が古くから大切にしてきた「無常の美」の世界が繰り広げられている。
平家琵琶とは、この「平家物語」を琵琶法師が語るときに用いる琵琶のことで、その音楽は「平家(平曲)」と呼ばれている。その歴史は古く、鎌倉時代に遡るとされているが、当初は小型の楽琵琶を転用していた例も多くみられる。しかし、楽琵琶との相違点としては、柱が1つ多くなり5つとなったこと、また、勘所を作る柱の位置が異なっていること、写真の楽器のように撥面に月形の装飾がつけられている場合が多いこと、撥の先端が尖っていることなどが挙げられる。
琵琶法師は、活動組織として数々の「座」を組んできたが、中でも平家琵琶を主に用いる「当道座」は、江戸時代になると幕府の庇護のもと次第に勢力を強め、その他の琵琶法師たちとの対立を深めていった。その結果、当道座は、自らは平家琵琶とともに三味線を用いる一方で、座外の琵琶法師たちには三味線の使用を禁じ、琵琶にも多くの制約を加えた。座外の琵琶法師たちは、三味線的要素を琵琶に反映させて新たな楽器を生み出し、演奏姿勢を工夫することで、必死に対応していったのである。つまり、三味線のように、自由な音高を得るため柱を高くしたり、細やかな手の動きに対応するために、より左手の負担が軽くなる斜めの構え方へと変化していったものと考えられている。そしてこれらの変化が盲僧琵琶へ、また後の近代琵琶へと受け継がれていくことになった。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

日本
全長
81cm
二弦琴
ヨーロッパを中心とした多くの楽器は、時代と共に弦数を増やしたり、音域を広げてきたが、この二弦琴はユニークなことに、十三弦箏(一般的な箏)よりも新しい楽器である。「原始的」に逆戻りしたというよりは、必要最小限にその形を残し、あとの無駄なものはすべてそぎ落とすという、「俳句」にも通じる日本人独特の感性が二弦琴という楽器にも反映されていると言えよう。
二弦琴は、江戸時代後期、中山琴主(なかやまことぬし)と葛原勾当(くずはらこうとう)により創作された。中山は幼少より音曲に親しみ、特に筝曲に造詣が深かった。青年期には目を病んでいたが、やがて病が快方に向かうと、神の加護に感謝して出雲大社に奉仕する。そのような中で、天啓によって二弦の琴を考案したと伝えられている。一方、葛原も同じ頃厳島神社に参拝し、やはり霊感を受けて同様な楽器を製作した。この両者の楽器を融合したのが二弦琴である。
この楽器は、宗教と結びついて神聖視された。その響きは清雅で可憐。曲も「古事記」や「万葉集」を題材にしたものが多く、卑俗なものはない。正式な場では、奏者は冠や装束を身につけ、琴台を飾り緒で飾る。また、台には榊(さかき)・玉・笏拍子・その他を並べて行う様子は、まるで神器のごとくである。
幕末の頃、日本では王政復古の思想が表れたが、そんな時代的背景とも相俟って、幕末から明治にかけて、二弦琴は全盛期を迎える。また、明治時代には、宗教色を離れた東流二弦琴が東京を中心に流行するが、現在はともに僅かな伝承者を残すばかりである。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

日本
全長109cm
楽琵琶
平家、薩摩、筑前等、後代の琵琶と区別するために、雅楽で用いる琵琶というほどの意味で、楽琵琶または雅楽琵琶と呼ばれている。また平安末期には、藤原師長が著わした解説書〈三五要録〉のように、全長の三尺五寸に因んで「三五」と呼ばれたこともあった。しかし当時も今も、特に区別する必要がなければ「琵琶」が正式な呼称である。
雅の時代には、身分の高い男子のたしなみとして重用され、〈源氏物語絵巻〉でも、二条院で匂宮の奏でる琵琶の音に耳を傾ける中の君が描かれ、他にも様々な場面に重要な小道具として登場している。
元来は、独奏、伴奏、合奏と多様な用途をもち、平安時代前期の遣唐使であった藤原貞敏は、〈流泉〉〈啄木〉等の琵琶独奏曲を学んで帰国している。しかし、希少な曲と思いやるあまり、そうした独奏曲を門外不出の秘曲として扱い、限られた楽士のみの間で伝承してきたために、鎌倉時代には消滅し、今日のように雅楽の管弦合奏のみで用いられる楽器になってしまった。
本家の中国では、琵琶は半音階が演奏できるように改良されて、超絶技巧を披瀝する近代的楽器へと変身し、往時の面影をわずかに残すのみとなっている。また、隣の韓国に伝えられた唐琵琶も、すでに歴史の遺物となってしまった。しかし我が国では、伝来のままの形を残し、おそらく奏法もそれほどの変化をせずに伝承されている。それぞれの国でそれぞれの運命を辿ってきた楽器「琵琶」。その足跡もまた人の歴史と同様、万状の物語を語りかけている。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

1750年頃
日本
4弦
全長106cm
筝銘 福寿
江戸後期—天下泰平・鎖国の時代にあって、日本の工芸界は飛躍的に独自の発達をとげた。漆芸・金工・木工・蒔絵などの各分野で、匠の技が成熟を極め、その細緻な細工は、現在でも賞翫(しょうがん)されるものである。楽器の世界も例外ではなく、六尺ほどもある箏の両端や側面などに、別材をはり、金蒔絵や螺鈿・木工細工などの豪華な装飾が施された。このように装飾に重きをおいた箏を「飾り箏」といい、生田流を中心に用いられた。一方、素地のままや、素地に直接象嵌を施す箏を「素箏(すごと)」といい、主に山田流で好まれた。写真の楽器は、山田流の素箏であるが、素地に直接南天文螺鈿、珊瑚象嵌が施され、当時の流行が反映されている。
山田流は、生田流の誕生から約100年後の1800年頃に誕生した、比較的新しい流派である。当時の生田流は、三味線主導で、地歌三弦の曲に筝を加えたものだったのに対して、山田流は、江戸の河東節や謡曲の要素を取り入れ、歌中心、筝主導の新しい形式の曲を作ったといわれている。
また、山田流創始者である山田検校は、筝師であった弟・重元房吉とともに、楽器を改良し、演奏姿勢なども変化させていった。具体的には、音量を増大させるために、柱を高くし、糸を強めにはり、全長はやや短く、箏のそりを大きくした。また、演奏姿勢を楽器に対して斜め向きから正面に変化させたが、これはより歌声を前に響かせるためであると考えられている。楽器本来の音響的な改良に力を注いだことが窺え、現在では流派を超えて、この新たなタイプの箏が使用されている。
この楽器の作者は、初代重元房吉の流れを汲むもので、何代目の作であるかは不明であるが、槽内部には、房吉の焼印を見ることが出来る。
(水野コレクション・武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

日本
全長177cm
和琴(わごん)
別名を倭琴(やまとごと)ともいう。日本の楽器の多くが外国から伝来した中で、和琴はその祖形を古代の日本にまで遡ることのできる、数少ない日本固有の楽器である。
古代の日本には、「コト・フエ・ツヅミ・スズ・ヌリデ(銅鐸)」などの楽器が存在していたと考えられるが、中でも「コト」は単なる楽器を超越した、神聖な楽器として特別な存在でもあった。『古事記』には、「オオクニヌシノミコトが妻スセリヒメを背負って、義父スサノオノミコトの太刀・弓矢とコトを持って脱走する」というくだりがある。このような非常事態に、コトを持ち出そうとしたことからも、当時いかにコトが大切なものであったかを窺うことができる。コトは男性によって使用され、王位継承のシンボルでもあり、神事で用いられる祭器でもあったのである。
今日に伝わる和琴は、日本古来のコトを土台にして、奈良時代に伝来した外国のコトの影響を受けて改造されたものと考えられる。現在では雅楽に属し、皇室の伝統儀式などで用いられている。
桐材の胴(槽)には、6本の絹弦が張られ、尾部は葦津緒(あしづお)と呼ばれる4色の絹の編みひもで止められている。そして、柱には楓の枝の二股が、自然のままの形状を活かして取り入れられている。その簡素で素朴な風貌は、自然と同化し「寂」を尊ぶという日本人の美的精神の表れとも言えるだろう。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

日本
全長 193cm
三の鼓
律令国家の時代、政権の担い手たちはその基盤の安定のために、大陸の先進の技術や知識を吸収しようと考え、武具・工具・生活用品から、都市計画・政治・宗教(仏教)に至るまで、あらゆる分野の情報を貪欲に取り入れていった。そうしたなかで、音楽(雅楽)も儀式の進行には欠かせないものとして、専門の楽師を招聘し、楽生の育成を始めた。
大陸伝来の雅楽は、中国の唐楽と朝鮮半島の高麗楽に分けられているが、高麗楽といっても高麗(高句麗)の音楽だけではなく、百済、新羅のものも含まれ、さらに後世には渤海(満州東部)の音楽をも含めて多様な内容になっている。
三の鼓は、その高麗楽で用いる両面太鼓で、四種類あった鼓の三番目であることを意味している。左右の鼓面は調べ緒(大調べ)で締められ、その大調べには張力調整用の調べ緒(小調べ)が巻きつけられている。奏者は安座して左手で小調べを握り、右手の桴で前打音を添えて拍を刻む。このリズムが楽曲のテンポを統率する重要な役目をもつため、その任には、楽長やそれに準ずる長老があたることが多い。
砂時計型の銅は、金泥の帯と、赤・青・緑等の色鮮やかな模様が描かれ、黒漆の桴、白い鼓面、朱の調べ緒とともに、華やかな色彩を提供している。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

1959年
日本
全長45cm
世界の民族楽器
タロガトー
タロガトーはハンガリーの楽器で、民族音楽の演奏では広く使われている。かつてはダブルリード楽器であったが、1890年代に楽器製作者シュンダにより写真のようなシングルリードのものが作られた。現在はこのタイプが普及している。形状はソプラノサクソフォーンに似ており、木製の本体にオーボエに似たキイシステムを備え、その音質は深く渋い。
18世紀初頭、ハンガリーの貴族ラーコーツィⅡ世の率いる反乱軍が、オーストリアからの独立を求めて蜂起した。その際に、タロガトーは独立運動の精神を表す楽器として支持者により吹き鳴らされた。この反乱は失敗に終わるが、そのため、運動の象徴的存在であったタロガトーの演奏もしばらくの間禁止された。こうした歴史的経緯により、その後タロガトーは「自由のシンボル」としてハンガリーの人々の心に深く根付くことになった。
ところでラーコーツィⅡ世の名は、有名な「ラーコーツィ行進曲」のタイトルにも使われている。この行進曲は、もともとはハンガリーに古くから伝わる作曲者不明の楽曲であり、「ハンガリー行進曲」とも呼ばれるが、独立運動を行ったラーコーツィⅡ世が好んだことから、別名「ラーコーツィ行進曲」とも呼ばれるようになった。この曲はベルリオーズやリストらが作品の中で用いたことでも知られている。
タロガトーは、ハンガリーでは「ラーコーツィ・シップ」とも呼ばれたという。この楽器はハンガリー人の誇りを表す楽器として、国民的英雄ラーコーツィの名と共に、人々に親しまれている。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

1935年頃
ハンガリー
全長67cm
クルース
クルースは弓奏の竪琴ともいえる楽器で、中世から19世紀前半までイギリスのアイルランドやウェールズ地方などで使われた。奏者は楽器を腿に挟み、左手で指板を押さえながら右手の弓で演奏する。張られた6本の弦は、基本的に同時に演奏される。この楽器の祖形は古代の竪琴にまで遡ることから、一時期、このクルースがヴァイオリンのような弓奏楽器の祖先ではないかと考えられ、その提唱から「最も古い弓奏楽器は何か」という論議が交わされることになった。
1830年代に、ベルギーの音楽学者フェティスは、クルースの両側のわく木を取り、中央の指板が残ることでヴァイオリン型の楽器が誕生したと述べた。しかし賛否両論の中、1856年、フェティスはそれまでの説を改め、クルースは後発の楽器であり、紀元前3000年にインドで使われていた楽器が最古の弓奏楽器であると主張を転換した。この考えは19世紀を通しての通説となり、「楽器学の父」として高名なドイツのザックスも、当初はフェティスの意見に同調している。しかしザックスは1940年にその考えを撤回し、最初の弓奏楽器は、9世紀ごろの中央アジアに出現したと主張した。この説を裏付けるかのように、1966年にドイツの音楽学者バッハマンは、多くの図像資料から弓奏楽器は8世紀以前には存在しなかったことを証明し、現在はその説が広く受け入れられている。
このように最古の弓奏楽器をめぐる研究は、多くの学者により様々な説が唱えられてきた。そして唱えられた学説は、時には提唱した本人により撤回されている。ここには学問追求の自由な討議の姿が映し出されている。クルースに端を発したヨーロッパの楽壇での論争から、私たちは自由闊達な学問論議のあり方を学ぶことができるのである。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

1912年頃
イギリス
全長58cm
バラフォン
調律した複数の音板を並べた木琴類は、欧米諸国を中心に広がるオーケストラ楽器の他、中南米、アフリカ、東南アジアなど世界の各地に様々な種類が広く分布しているが、これらはマリンバを中心に、時代をこえ民族をこえて意外な接点で結ばれている。
オーケストラマリンバは、もとを遡るとアフリカまでたどり着く。マリンバという名称もアフリカのバンドゥー語に由来するもので、平らな板を意味する単語「リンバ(rimba)」に複数を示す接頭辞「マ(ma)」を合わせたものである。さらに、木琴の起源には諸説あり、地面の穴の上に木の棒を渡して棒で叩いていたのが始まりとも言われている。
アフリカの木琴は、主に南アフリカではマリンバ、西アフリカではバラフォンと呼ばれ、地域や民族によって名称や形態は様々である。アフリカの木琴の最大の特徴は、共鳴させるため各音板の下につけられた瓢箪である。しかも瓢箪にはそれぞれ穴が開けられ、そこに蜘蛛の卵のうの薄膜をはることによりビリビリという独特な「サワリ」的音色を作り出す。
18世紀になるとアフリカの奴隷貿易により、人だけでなく楽器や音楽も一緒にアメリカ大陸へと渡っていった。そして、遠くアメリカの地でこの楽器はマリンバと呼ばれ、現地の自然環境や中南米の多様な文化と融合しながら飛躍的に発展していったのである。最初の変化は共鳴器であった。中南米産の瓢箪は細長かったため、自然と共鳴器が長くなった。共鳴器の膜には、蜘蛛の代わりに豚の腸の膜が用いられた。その後、共鳴器は瓢箪から木製のパイプへと発展し、20世紀に入ると、アメリカのDeaganによって金属パイプが取り入れられ、また、ピアノのような鍵盤の配置に改良が行われることにより、今日のオーケストラマリンバが誕生したのである。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

幅 101cm
マホラトゥック
マホラトゥックは、タイにおける「銅鼓」の呼称である。銅鼓は中国南部から東南アジアにかけて広く使われる青銅製の太鼓で、その起源は紀元前にまで遡る。この楽器が他の楽器と異なるのは、その研究がもっぱら考古学的観点によりなされてきたところにある。
銅鼓は古いもので紀元前400年頃からその用例が見られる。最初の研究はドイツのマイヤーによるもので、彼は1884年に『東インド諸島からの古代遺物』を発表し、その中で52点の銅鼓を取り上げた。その後、1902年にウィーンのヘーガーは165点の銅鼓を大きく4つのタイプに分類し、この分類を皮切りに銅鼓の歴史研究が世界各国で始まった。銅鼓に刻まれた太陽紋や鳥紋などの具象紋、菱形や円形などの幾何学紋、さらに接着された蛙や象などの立体像などは、地域と製作年により特徴が異なる。そのため、この楽器の分類と編年の作業が、東南アジアの青銅器文化解明の有力な手掛かりとなった。銅鼓を通して、この地域の考古学資料に地域と実年代を特定できるからである。
銅鼓は現在でも儀器として新築、葬儀、治療の儀式などで使われている。演奏に際しては、鼓面が横を向くように紐で吊しバチで打奏する。この楽器は聖なる楽器として精霊が宿ると考えられており、そのために精霊を起こさないように普段は日常空間から離して保管され、しばしばその使用に先立ち供養の儀式が行われる。写真の楽器はヘーガー分類第Ⅲ式に属す典型的なタイの銅鼓で、17~8世紀のものをモデルにした20世紀の複製品である。鼓面の4箇所に置かれた蛙の立体像(写真)からは、この楽器と雨乞いの儀式との関連を窺うことができ、さまざまな儀式に使用されてきた銅鼓の歴史を物語る資料といえよう。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

直径54cm
カハリア
インド西部グジャラート州ダングス県の小さな町アーワ(Ahwa)は、毎年春になるとダングス・ダーバーという祭りで賑わう。この地方は森林に囲まれた標高約2000メートルの丘陵地帯で、幾つかの地元部族が居住している。これらの部族が一堂に集まって繰り広げられる民族色豊かな踊りの祭典が、ダングス・ダーバーである。カハリアはこの祭りで踊りの伴奏のために演奏される。
この笛は細長く大きなヒョウタンと二本の竹で作られており、奏者は楽器を紐で首に固定し、ヒョウタンの上部に付けられた吹き口から息を吹き込む。息はヒョウタンからリードの付けられた竹筒に伝わり、ドローンを伴った旋律を奏でる。この楽器の演奏は村の青年の長が務め、華やかに着飾った若い男女が奏者らを囲んで輪になって踊る。
カハリアでひときわ目を引くのが、楽器に付けられた数十本の孔雀の羽である。インドでは、古くから孔雀は毒蛇を食するといわれ、毒を制する聖なる動物と崇められてきた。この信仰は密教に伝わり、孔雀の背に乗り柔和な表情の孔雀明王は、わが国でも奈良時代からすでに祀られていた。孔雀明王が四本の手のひとつに孔雀の羽を持っているのは、息災を祈るためである。カハリアは聖なる孔雀の羽とともに、部族の宝である若者を守り、祝福し続けている。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

全長101cm
馬頭琴
馬頭琴は、チンギスハンの伝統を受け継ぐ騎馬民族モンゴル人の、象徴ともいえる楽器で、モンゴルの人々は、乗馬とこの楽器を幼い頃から一生懸命練習し、これらを上手にこなすようになって、一人前と見なされるようになる。日本では、馬頭琴は小学校2年生の国語の教科書で習う、〈スーホの白い馬〉でよく知られるようになった。殿様にだまされて捕らえられてしまったスーホの愛する白馬は、全身に矢を射られながらもスーホのもとへ逃げ帰ったが、そこで息絶えてしまう。ある日、悲しみにくれるスーホの夢の中に白馬が現れて、「私の体を使って楽器を作ってください。そうすれば、あなたといつも一緒にいられます…」と白馬が告げる感動の場面は、馬を愛し、馬と共に生きるモンゴル人ならではの民話といえよう。
弓奏楽器の弦は、ガットやスチールを用いることが多いが、馬頭琴のそれは民話そのままで、4度または5度に調弦された馬尾の毛を用いている。高音弦は雌馬の尾105本、低音弦は雄馬の尾130本程度を束ねたものである。見渡す限りの草原で、愛する白馬のことを思いながら悲しみの歌を弾くスーホ…その馬頭琴は、これからも永遠にモンゴルの人々に愛され続けていくだろう。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

全長116cm
ツィンバロン
ツィンバロンはハンガリーの民族楽器で、台形の響板に張られた弦を、二本のバチでたたいて演奏する。コダーイの作品では、目にも留まらぬ名人芸的なバチ捌きが披露される。この楽器は1700年頃に大型のものが作られ、「パンタレオン」と呼ばれた。パンタレオンは当時のヨーロッパで流行したが、その奏法や特徴が黎明期のピアノ製作に多大な影響を与えたといわれる。
ピアノのハンマーは、軸を支点に回転し打弦するが、これは既存の鍵盤楽器には見られなかった方式で、パンタレオンの奏法を参考にした可能性が高い。また、今日のピアノ・メーカーに直接つながる先駆者、ジルバーマンは、ダンパーを常時開放する装置を備えたピアノを製作したが、これはダンパーを持たないパンタレオンの響きを求めたものであった。やがてこの装置はピアノのペダルシステムへと発展する。
ピアノがすでに完成された楽器として、その地位を確固たるものにしていた1870年代、ブダペストのジェンダは、ピアノを参考にツィンバロンの改良を行った。彼は、ツィンバロンの調弦に白鍵と黒鍵の配列を取り入れ、ペダル式のダンパーを装備させた。その結果、それまでジプシーの素朴な民族楽器であったこの楽器が、オーケストラとの競演も可能な、現在の演奏会用ツィンバロンに生まれ変わったのである。ピアノとツィンバロンは、おのおのの発達の過程で、互いに影響しあった楽器といえよう。
(武蔵野音楽大学楽器ミュージアム所蔵)

ハンガリーC-a3
幅149cm