福井直昭学長 対談

坂東玉三郎×福井学長 特別対談4

歌舞伎役者・本学特別招聘教授 坂東玉三郎×武蔵野音楽大学学長 福井直昭特別対談

自然の美と芸術

福井 昨年、先生が世界文化賞を受賞した際に、「美しさだけを追い求めてきたわけではない。演劇の根本でもある美と醜、善と悪、そうしたものが複雑に絡み合っている役にやり甲斐を感じます」と発言されました。
音楽芸術も美だけではなく、リアリティーを求めるなど、色々なものを表現しないといけない。

玉三郎 もちろんです。しかし「美であるか」どうかは別にして、音楽にはカタルシス(心の浄化)があった方がいいですよね。それがないものは、私は聴きたくないです。

福井 それは私もそうです。既に古代ギリシャ時代から、アリストテレス等の賢人が音楽の中に聴く人の魂を動かす「カタルシス」の作用を見ていました。心が洗われる、魂が清められる、清々しい気分になる──カタルシスの喚起は音楽のもつ重要な効果ですね。
 さて、「美」といえば、ドビュッシーが「芸術はすべての《つくりごと》のなかで最も美しい《つくりごと》だ」という言葉を残しています。これについてはどう思われますか。

玉三郎 ドビュッシーがどこで、どういう思いで言ったのか分かりませんが、もしかしたら自分が「一番美しいものを作りたい」という意味なのかもしれません。この世の中にある音を集めて、バランスのとれた美しいハーモニーを作りたい、という思いからの発言なのかもしれません。

福井 語源も含めた「アート」という言葉の意味や、「美しい」の捉え方にもよりますね。

玉三郎 そうですね。もしかしたら、まったく作為のない世に咲く花が一番美しいかもしれないし、空を飛ぶ鳥が一番美しいかもしれない。ひょっとしたら、自然の花や鳥より美しいものはないから、芸術とは、それらを超える美しいものを作りたいという人間の欲望かもしれないですね。

福井 玉三郎先生はスキューバダイビングもなさっていますし、自然を愛する気持ちもお強いのではないでしょうか。

玉三郎 夕陽の一番美しいものは、どんな作品より美しいかもしれません。それに憧れて作品を作るということはあり得るので、少なくとも作ったものがこの世で一番美しいとは言い切れない。

福井 だからこそドビュッシーは「すべての《つくりごと》のなかで」という断りを入れたのだと思います。同様に私の好きな言葉で言えば、20世紀最大のピアニストの一人A・ルービンシュタインが残したものがあり
ます。それは、「私は生きることに夢中だ。人生の変化、色、様々な動きを愛している。話ができること、見えること、音が聞こえること、歩けること、音楽や絵画を楽しめること、それは全くの奇跡だ」というもの。
いま我々はコロナ渦の中、大変な時代を迎えていますが、人間と自然の関わりはどうあるべきだとお考えですか。

玉三郎 自然というのは、どんなに人間が破壊しようと思っても、ちゃんとバランスを取っています。例えば気候変動が起こっても、それに対応しているのが大自然、大宇宙だと思います。人間も自然のひとつだとすれば、自然に生まれてきて、自然に滅んでいくんでしょうね。

福井 人間も自然の一部だと。

玉三郎 モーツァルトを始め、素晴らしい音楽家や彫刻家、画家などは、宇宙からの波、その波のさなかに生まれた人だと思うんです。その波をもらっている人たちが、心のままに、或いは夢中で作ったものは、自然の
美によく似ています。だから、そうした人たちはある一点では作曲家と呼ばれているけれども、実は宇宙から人間にもたらす美を表現する過程の人、つまりその仲介人であると思います。

福井 天才と呼ばれる大作曲家たちの存在、美質を表した、素敵なお話です。最後に、この号が出たあとに武蔵野で開いていただく、「1%のひらめきと99%の努力」と題する講座に対する抱負をお聞かせください。

玉三郎 どんな講座になるか分かりませんが、楽しく話し合いながら、学生の皆さんそれぞれが持っているものが十分に発揮できる時間にしたいと思います。

福井 本日は、歌舞伎と音楽を中心とした芸術論が展開でき、とても有意義な対談となりました。素敵な時間を、ありがとうございました。講座を楽しみにしております。

 

(2020年10月発行 MUSASHINO for TOMORROW Vol.135 より)

bando5.jpg
2020年2 月に逝去されたイタリアのオペラ歌手(ソプラノ)ミレッラ・フレーニ氏と
bando9.jpg